1951年福岡県生まれ。武蔵野美術大学造形学部空間デザイン学科に学ぶ。1974年から1981年まで大駱駝艦に在籍し、独立。八戸市青南病院での舞踏療法や一般公募による舞踏講座等に取り組む。1984年舞踏集団「葡萄弾」を結成し、野外、倉庫、画廊など劇場外を中心に活動。1992年に発表した「HOT KEY」はアメリカ、メキシコ、カナダ、ブラジルで上演、これを機にカンパニー名を「UNO-MAN+COMPANY」と改める。劇団青い鳥の舞台美術を担ったり、空間創造研究室「メタファクトリー」を開くなど、空間演出の重要性も追求した。2003年には山口情報芸術センター(YCAM)の技術課長に就任。2012年に死去。
満州鉄道を模して本物の線路を枕木・線路石と共に約30m設置し客席として作られた船がエンディングに線路の上を曳航する。公演モチーフは旧日本軍兵士の亡霊の彷徨いから始まり線路を歩く花嫁、インドの瘋癲青年の群舞、その中から現れる金色の仏の踊りなど、それ以前の主要なモチーフであった「ハレとケ」を織り交ぜながら以後の作品に色濃く現れる仏教思想に視線を置いた記念碑的作品
TOKYO DANCE SCENERY
中国北宋時代の廓庵禅師によって、禅修行を牛と牧童の関係で暗喩的に10枚の絵と共に描かれた、十牛図をモチーフに作られた。舞台上には宇野萬によって製作された、蹄の無い4頭の牛がいる。絶望的な闘いの後に得たものは何か?その時初めて彼は絶対無(空)に到達する。禅宗の難テキストに正面から挑んだ名作で国内公演はもとより北中南米大陸、フランスにて大好評を得た。