盲学校を出たばかりの20才のアニー・サリヴァンは、ケラー家からの要請を受けて、家庭教師として北部からやって来る。娘のヘレンは乳児のころに熱病に冒され、視力と聴力を失い、ことばも獲得できないまま、野性児のように生きていた。親たちは施設に入れようとも考えたが、あまりの環境の悪さに諦め、人間として何も通じないヘレンを持て余している。しつけを期待する親たちに対して、アニーはヘレンに言葉を教えようとする。「言葉など無理に決まっている」という無理解と、好きなようにさせてやりたいという愛情と甘やかしに真っ向から立ち向かい、アニーはヘレンと心をかよわせ、ヘレンの中に眠っている知性を揺り動かそうとする。(一幕ラストの乱闘食堂は、若いアニーの気負いとヘレンの反抗が真っ向から衝突。息もつかせぬ緊迫したシーンだ。)失敗に次ぐ失敗の後、アニーはヘレンとふたりっきりで、甘やかす環境のない生活を要求する。生活のなかにあるすべてのもの、ことを指文字にしてつづっていくアニー。期限の二週間がたって、一見おとなしく従うことを覚えたかにみえたヘレンが、家族の元に戻ると再び反抗する。あの乱闘が再現されるのかと思った瞬間、ヘレンのなかでいままでのすべてモヤモヤとしたものがカチリとはまる。WATER。……。
偉人伝として有名なヘレン・ケラーの物語を、広渡常敏は「言葉」に焦点を絞って脚色。アニーがヘレンの手のひらに打ち続ける指文字は、スライドで逐次背景に映し出され、言葉があるということも知らないヘレンに、言葉が人や世界と自分をつなぐツールであることを教え続けるその途方もない努力を、淡々と映しつづける。そしてこの努力が、アニーの愛と、家族の愛によって、ヘレンのなかにある「暗闇を脱したい欲望」とつながった時、一筋の希望として、文字が、言葉が、ヘレンの中に落ちていくのだ。
遅々として進まない状況、刻々と変わっていく感情を、池辺晋一郎のジャズの調べにのせてスタイリッシュに描く東京演劇アンサンブルの傑作である。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
1954年創立(劇団三期会1967年東京演劇アンサンブルに改名)。演出家広渡常敏を中心にベルトルト・ブレヒトの『今日の世界は演劇によって表現できるか?』を問い続け、現代演劇の創造を続けている。
1977年東京武蔵関‘ブレヒトの芝居小屋’を拠点として、日本・海外の創作、翻訳戯曲を上演。海外公演や全国演劇鑑賞会、学校の演劇鑑賞教室などで旅公演を行っている。児童演劇も創立当初から全国のおやこ劇場とともに沢山の作品をうみだしてきた。講演会、シンポジウムなどで地域との交流など活動は幅広い。
2019年本拠地を埼玉県に移し‘野火止RAUM’がはじまった。
バルコニーに佇む若い人たち、窓の外を眺めながらおしゃべりともいえない会話を交わしている。一方、PTSDの兵士と、こどもを兵士に撃ち殺された母親が対話しようとしている。更にこの世を司っている?ような、ユリズンという男が存在し、彼が笑うと世界では轟音が鳴り響き、地震が起こり、軍隊が派遣され、…3つのワールドは次第に絡まりあい、最終的に一つになっていく。ウイリアム・ブレイクの予言詩をもとに書かれた作品。
小さな山の分教場に、外国人のような子が転校してくる。その子がいる所では風がどうと吹いて教室のガラス戸はガタガタ鳴り、山や萱や栗の木はみんな揺れました。みんなこの転校生高田三郎を、恐れと憧れをこめて、風の神「風の又三郎」だと思いこみます。山の子ども達は三郎と一緒に野山を駆け、馬を追い、滝壺に飛び込みま。いつも風が、どっどど どどう と吹きこどもたちの昂揚した心を、日常から心象の世界へと導くのです。三
大杉栄と伊藤野枝の娘として生まれたルイズ。彼女は国賊の娘として周囲の特異な視線にさらされながら、自分の生き方を探し続ける。姉・魔子の攻撃的で、自虐的な生き方と対照的な静かな暮らしを選択したルイズの目に、次第に父、母の残してくれた思想がはっきりと浮かびが上がってくる。関東大震災、第二次世界大戦、戦後の復興を背景に、ルイズの半生が描かれる大作。立原りゅうと山内久のコンビが、松下竜一の原作を見事に脚色、
この作品は1957年に初演。伊那谷から四日市の紡績工場に働きに来ていた女工さんたちのつづり方サークル「生活を記録する会」に取材して共同制作したもの。集団就職で紡績に働く娘たちは、当時盛んだったサークル活動で仲間をつくり、書くこと、話し合うことを通して自分たちの置かれている状況や、古い村の体質、女の立場の弱さを発見し、仲間とともに現実を乗り越える力を獲得していく。