(フライヤーより)
1990年代後半、時代の要請を背景に花開いた〈バニョレ〉をキーワードとして2002年夏、第1回ダンスビエンナーレTOKYOを開催しました。〈バニョレ〉を、目指し、通過し、去りゆくものと捉え、次代のダンスの道を模索する試みでした。世界の各地から多くの才能が集まり、多くの作品が時代に訣別を告げていきました。灼熱の大地に、猛吹雪の大地に、緑あふれる大地に別れを告げて〈10,000年の旅路〉を歩き始めたのです。新たな対立軸があらわになってきた21世紀の地球には新たな〈10,000年の旅路〉が必要です。2004年ダンスという共通言語と同時代を携えて多くの才能たちが再び出発点に集います。
第2回となるダンスビエンナーレTOKYOでは、オーストリア、カナダ、フィンランド、フランス、ドイツ、イスラエル、イタリア、韓国、スロバキア、スペイン、日本の11ヶ国から16カンパニー、120名を超えるアーティストの参加により、青山劇場、青山円形劇場、スパイラルホール、での公演、若手アーティストによるショーケース、そして、ダンスフォーラムやワークショップ、青少年のためのダンスワークショップなど多彩なプログラムを開催します。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
国際児童年(1979年)を記念し、厚生省が計画、建設した児童のための総合施設で、1985年11月に開館、2015年3月に閉館した。演劇・音楽・舞踊の各分野において児童・青少年の文化の向上のための公演や普及プログラム、世界の多様な文化芸術との交流等を通して、日本の舞台芸術創造活動が活性化する事を目的とした自主事業を行った。話題性や注目度の高い企画、作品を制作し発表して、舞台芸術の各分野で旗印的な公演を行うことで演劇・音楽・舞踊の各分野の活性化に貢献した。
(フライヤーより)それは、地球の上から学校というものが姿を消してしまった時代。子供たちの教育は、すべてパソコンによって行われていた。レミは中学二年生。パパとママとオバアチャンの三人と暮らしている、ごく普通の女の子。そんなレミの家で、ある日、とんでもない事件が起こる。変わり者のオバアチャンが、街の古道具屋でアンドロイドを買ってきたのだ。それは、一〇〇年前に作られた、理科の先生。名前はケンジ1996。
(フライヤーより)アメリカからヨーロッパへと発信されたダンスは、いま様々な国で受信されて同時多発に演舞をはじめた。まるで21世紀のダンスシーンを予感させるように………。様々なダンスシーンを展開してきた青山円形劇場は、世界最大のシャンパンハウス モエ・エ・シャンドン社の特別協賛を得て、ヌーベル・ダンスの新しい潮流──マリレン・ブルーケール・ダンス・カンパニーICOSAÉDREの初来日公演を1992年
(フライヤーより)チェコを拠点に活躍する 人形作家・沢則行の小品集《KOUSKY》新作に加えて、今回はジャズ、ポップスヴァイオリンの第一人者・中西俊博とのコラボレーション。2003年4月、世界初の不思議空間が青山円形劇場にあらわれる!
若手バレエダンサーを中心としたガラ公演の第15回目である。公演の副題は「ラストコンサート」。1986年から毎年開催されてきた青山バレエフェスティバルは、第15回でいったん終止符を打つこととなった。そもそも国際的バレエコンクールで入賞を果たした若手バレエダンサーを中心としたフェスティバルであり、古典作品からの抜粋上演が多かったが、回を重ねていくうちに創作作品の上演も増え、また海外からのコンテンポラリ
