てのひらをしたへ向ければ我が下あり
手の甲は自由にならぬところかな
なか指にしばらく水を飲ませけり
俳人 阿部青鞋は体の部分を詠みこんだ句を多く残している。
五七五の形で保存された言葉は踊られる日を密かに期待し、じっと待っていたかのようだった。
詩によって体を日常との膠着状態から引き剥がし、改めて眺めてみる。
青鞋の句を五十句、ダンススコアとして構成し踊るデュオダンス作品。
身罷る 罷る(まかる)はまかり通る、まかり間違うなど、ご免こうむって勝手にやらせてもらうという、その動詞があらわす事柄を強める意味をもつ。
mimaculは、私たちが死ぬまでのあいだ、つまり生きていることの様々を思考し、あそぶためのジャンル横断流動ユニットである。舞台作品の制作を中心に展覧会、出版、レクチャーなども企画する。
この作品は、本作のために書かれたスコア『Into a dream』をもとにダンスの時間を立ち上げます。異なる身体言語を持つ3人のダンサーは未知のタイムラインの奏者であり、走者でもあります。ただ踊るのでもなく、ただ居るのでもなく、ただ感じるのでもない方法で、そのために、そのために、そのために、そのために、それより僕〈と〉踊りませんか。
失うことが進化だとすれば、僕たちはこれからもどんどん失うだろう。どんどん失って、いつかすぽんと消えてしまう。失ってゆく、というのはどういう感覚なんだろう。失いつつあるそのさなか、ひとはなにを思うのだろう。忘れることと失うことはいったいどのくらい違うのだろう。僕は毎晩僕の尾骶骨に問いかける。ちいさな骨が寄り添うように集まった、その名残の部分に問いかける—— ひとりの男とその妻、女、