失うことが進化だとすれば、僕たちはこれからもどんどん失うだろう。
どんどん失って、いつかすぽんと消えてしまう。
失ってゆく、というのはどういう感覚なんだろう。
失いつつあるそのさなか、ひとはなにを思うのだろう。
忘れることと失うことはいったいどのくらい違うのだろう。
僕は毎晩僕の尾骶骨に問いかける。
ちいさな骨が寄り添うように集まった、その名残の部分に問いかける——
ひとりの男とその妻、女、母。それぞれとのダイアローグによって紡がれる会話劇。
六畳間での会話から、我々がどうしようもなく生まれて、生きて、死んでいくことについて、普遍的な視座をもって描かれる。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
身罷る 罷る(まかる)はまかり通る、まかり間違うなど、ご免こうむって勝手にやらせてもらうという、その動詞があらわす事柄を強める意味をもつ。
mimaculは、私たちが死ぬまでのあいだ、つまり生きていることの様々を思考し、あそぶためのジャンル横断流動ユニットである。舞台作品の制作を中心に展覧会、出版、レクチャーなども企画する。
この作品は、本作のために書かれたスコア『Into a dream』をもとにダンスの時間を立ち上げます。異なる身体言語を持つ3人のダンサーは未知のタイムラインの奏者であり、走者でもあります。ただ踊るのでもなく、ただ居るのでもなく、ただ感じるのでもない方法で、そのために、そのために、そのために、そのために、それより僕〈と〉踊りませんか。
てのひらをしたへ向ければ我が下あり手の甲は自由にならぬところかななか指にしばらく水を飲ませけり俳人 阿部青鞋は体の部分を詠みこんだ句を多く残している。五七五の形で保存された言葉は踊られる日を密かに期待し、じっと待っていたかのようだった。詩によって体を日常との膠着状態から引き剥がし、改めて眺めてみる。青鞋の句を五十句、ダンススコアとして構成し踊るデュオダンス作品。