1964年からアスベスト館で土方巽に師事し、土方に「ガニ股のニジンスキー」と称された玉野黄市は、1972年に哈爾濱派を結成、1979年からサンフランシスコに拠点を移し、米国での舞踏の広がりに貢献した。アメリカ移住後も大駱駝艦公演への客演、作曲家・喜多郎氏の日本ツアーへの参加など、日本での公演も多い。「時間の海」は大阪で開催された単独公演である。米国での舞踏講習に参加していた若手も加えての作品となっている。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
大阪・千日前の上方ビル4階にあった劇場。前身は、落語家や歌舞伎役者、新派の役者などが常宿とした旅館「上方」だった。1989年に廃業した旅館の跡地に、1991年に鳥居学により若手芸人の研鑽の場として設立された。寄席や講談、演劇のみならず、2001年までプロデューサーを務めた大谷燠の人脈を活かし、多くの舞踏公演も行われた。演芸場としての役目を十分に果たしたと、2020年3月に閉館後は、千日山弘昌寺の本堂となっている。
この上演に当たっては確か9ヶ月になろうとしている母體真っ只中、體は刻々と変化していた。それそのものをどう作品にするかの試みがこの公演の醍醐味だった。胎児を育もうとする體は異常に睡眠を要求する傍ら、公演などという目論見に向かっており、育もうとする母體と公演を貫こうとする意志が、闘いながら交錯して出来上がって行った。
OSAKA DANCE EXPERIENCE
太古より日本人の背後には白い影が複数つきまとっている。それは韓半島に足を踏み入れた瞬間、生き生きと輝き始める。この白く輝く影は決して怒りをあらわにしているのではない。我々はただ静かに耳を傾けたい。
OSAKA DANCE EXPERIENCE
舞踏を再考しようと大阪で1995年から2000年まで6回開催されたOSAKA DANCE EXPERIENCEの第1回参加作品。栗太郎率いる古舞族アルタイは、前年に北海道から活動拠点を関西に移し、栗太郎は丹波に移り住んでいた。「ワラズ」は丹波篠山の方言で藁のこと。農業と建築業をやりながら、お百姓や田舎をテーマにした作品を作りたかったという栗太郎は、そういう暮らしの中で救いようのない現実に内面的な救
OSAKA DANCE EXPERIENCE
チベットには様々な不思議があふれています。「バルドゥ トェ ドル」とは、一般に "チベット死者の書" として知られている密教経典の原語名。死から誕生へと輪廻転生していく霊魂への導きを説いた世紀の奇書。この経典に想をとり、一九九五年西チベット・聖山カイラス巡礼行での体験を混えて創作した虫丸流立体マンダラ肉体詩の世界。踊り踊らんとて旅続け、酒飲まんとて人を恋ふ。