1988年、早稲田奉仕園で初演。ダンスシリーズ「装束は水」の一作。パリ、エジンバラでも上演された。作中では鏡と蛍光管が用いられる。
初演案内状には、「私の踊りの中に少しづつ芽生えてきた自己(性)愛の蒼い魚を、足関節と唇の距離のいたぶりといつくしみの綾取りとして、或いは触れる、触れられるという触感覚のイレウス(腸管閉塞)として、私という肉体の湖の中で渉猟(ハント)してみたい」とある。
1979年から1991年まで西武百貨店池袋店8階にあった座席数186席の多目的スペース。80年代の先鋭的文化の発信地として、実験映画、ヴィデオ・アート、音楽、ダンスなどから講演や演芸まで、「新しい体験教室」と銘打って12年間で1000本以上のプログラムが開催された。そのジャンル越境的な活動の様子は、『スタジオ200活動誌1979-1991』(1991年、西武百貨店発行)に詳しい。
「野にあるごとく いかようにして 寒暖する身を消し去るのだろうか 野花になれるのだろうか」大野一雄、土方巽に師事した舞踏家、高井富子(1931-2011)の「形而情學」シリーズは、1967年に土方の演出で始まる。高井は1986年に「其ノ二」を発表、以来、このシリーズを踊り続けた。「野花の露」は「其ノ五」にあたり、フランクフルト、パリでも上演されている。婚約者、妊婦、自らの過去に思いを馳せる老婆等の
STUDIO 200 LIVE PIECES
1982年に中野テルプシコールで始まった川仁宏と田中トシのデュオユニット・マウスピースはその後、加藤啓、古屋俊彦などのコラボレーションを得て継続した。 アントナン・アルトーに触発された声の身体性と即興ライブをひとつの系として、ジャンルの横断と、複数の関係のまん中から生まれ消えるライブパフォーマンスを実験した。「ダブル・バインド」は実質的にマウスピースとして最後の活動となった。
Tokyo Scene 88
「ピュアな創作現場とアコースティック・サウンドのコラボレーション。ひとと物質の未来に視線をむけながら」がテーマの「TOKYO SCENE 88」は1988年12月8日~11日まで4組のコラボレーションを展開。1974年より九十九里浜で「知覚行為」を始め、自然の中での裸体歩行を100回以上行った後、86年から「ひとり踊り」と名付けた裸体舞踊を行なう川村浪子と、田中泯などの舞踊家や美術家と組んで先駆的
STUDIO 200 LIVE PIECES
1982年に中野テルプシコールで始まった川仁宏と田中トシのデュオユニット・マウスピースはその後、加藤啓、古屋俊彦などのコラボレーションを得て継続した。 アントナン・アルトーに触発された声の身体性と即興ライブをひとつの系として、ジャンルの横断と、複数の関係のまん中から生まれ消えるライブパフォーマンスを実験した。「ダブル・バインド」は実質的にマウスピースとして最後の活動となった。