OSAKA DANCE EXPERIENCE
OSAKA DANCE EXPERIENCE
去年に引きつづき「ピエタ」をダンスエクペリエンスで踊るわけですが、ピエタというイマージュは、もう十数年私の中で生きつづけ、なおその謎を深めながら変容しつつ、私を招きながら私が踊る動機にすらなっているのです。「ボクハ アナタガ ケッシテフリムカナイコトヲシッテイル。シカシ ボクガ シ ヲ ムカエルトキ ボクヲ ダクノガ アナタデアルコトモシッテイル。」(以下略、チラシより)
-
OSAKA DANCE EXPERIENCE
太古より日本人の背後には白い影が複数つきまとっている。それは韓半島に足を踏み入れた瞬間、生き生きと輝き始める。この白く輝く影は決して怒りをあらわにしているのではない。我々はただ静かに耳を傾けたい。
「生成(なまなり)」は、「全裸・不動・垂立」のソロ・パフォーマンスを展開していた岩名雅記にとって大きな転機となった作品で、1985年初演。自らの中に潜んでいる女性性を踊りたいと、初めてヨーロッパ近世の貴婦人のドレスを着て踊った。同年、岩名は自らの踊りを「舞踏」と呼ぶようになる。「生成(なまなり)」と呼ばれる能面は、角を少し生やした女面で、般若になる前の状態を表したものを言う。
この上演に当たっては確か9ヶ月になろうとしている母體真っ只中、體は刻々と変化していた。それそのものをどう作品にするかの試みがこの公演の醍醐味だった。胎児を育もうとする體は異常に睡眠を要求する傍ら、公演などという目論見に向かっており、育もうとする母體と公演を貫こうとする意志が、闘いながら交錯して出来上がって行った。
1964年からアスベスト館で土方巽に師事し、土方に「ガニ股のニジンスキー」と称された玉野黄市は、1972年に哈爾濱派を結成、1979年からサンフランシスコに拠点を移し、米国での舞踏の広がりに貢献した。アメリカ移住後も大駱駝艦公演への客演、作曲家・喜多郎氏の日本ツアーへの参加など、日本での公演も多い。「時間の海」は大阪で開催された単独公演である。米国での舞踏講習に参加していた若手も加えての作品となっ