昭和十六年、、若狭の堀口家では、当主文蔵の野辺送りが行われていた。うるし取りで一代の財産を築いたにもかかわらず、放蕩の血が、いつしか体内を蝕んでいたのである。そんなおりもおり残された妻りんのもとへ、二人の若者が訪ねてくる。文蔵が舞鶴の女に産ませた富吉と、弟の千太である。日陰の身であった下駄職人の富吉を憐み、りんは実母のような労りを見せる。富吉もりんの優しさに応え、下駄作りに励むのだったが、その心にはいつしかりんへの思いが……。
劇団文化座は戦時下の1942(昭和17)年2月26日に結成される。同年4月第1回公演梅本重信作『武蔵野』で旗揚げ。敗戦間際の昭和20年6月、日本の現代劇の紹介という名目で満州に渡り2か月後に敗戦を迎え、一年間の難民生活を経て帰国。以来、「戦争と日本人」にこだわった作品、日本の底辺に生きる人々に寄り添った作品、現代を映す鏡となる現代劇を生み出し続けている。
1960年代、四国は観音寺、そこにはキラキラとした青春が息づいていた。ロックに魅せられた<ちっくん>とその仲間たちはバンド『ロッキング・ホースメン』を結成、高校の三年間という熱き時間を疾走していく。楽器を手に入れるためのアルバイト、練習、合宿、友情、恋、出会いと別れといった、誰もが経験するような、しかし誰のものとも違うかけがえのない青春がそこにはあった!
土岐は1963(昭和38)年、金融業者の武市浩蔵は妾駒代の家で急死する。報せを聞いて本妻の松子と浩蔵の妹タキが駆けつけた。お互い’カボチャ婆’”電気クラゲ’’キツネ’と陰口をきいている三人の遭遇である。四十九日も無事に済ませ松子は一安心するも、タキが兄の家に住むのは当然と押しかけてきた。さらには駒代も新橋の料理屋の普請が済むまで部屋を貸してほしいとこれまた居座ってしまう。かくして本妻と妾と小姑、一
日本による韓国併合の時代に朝鮮北部に産まれた李仲燮は、朝鮮の大地を愛し幼い頃より絵に描いていた。一九三五年、支配国である日本に渡り 、東京帝国美術学校、文化学院美術科で絵を学ぶ。在学中に山本方子と出会い魅かれ合うが、戦局も逼迫して一人、実家のある元山(ウォンサン)へと戻った。思いを断ち切れない方子は終戦間近の一九四五年、危険な玄界灘を一人渡り仲燮と再会する。二人は結婚、山本方子は李南徳(イ・ナムド
濡れ濡れべたべた この町の実在する小都市が雨にけぶる。近代とは、限りなく現代に近い過去。足元を水が流れる。調査によりますと、わが啄木研究会の温度は、全国平均より三十五%も高い。湿気の主な原因は、工藤一先生のよだれ、寝汗、つばき、たん。しかし、なんといっても最大の要因は雨。工藤一に雨が降る。石川啄木の本名も、一。はじめの一歩。啄木は七つになるまで、母方の工藤姓を名のった。しかし、こちらの工藤一、七つ