中国地方は、三次盆地の一寒村—―。十六歳のセキが、この地で「流れ者」と呼ばれている茂市のもとへ嫁いできたのは、明治29年の初夏の事であった。郵便配達人をやっていた茂市が、大地主の七敷の家に奉公に上がっていたセキを見初め、「おまえ、わしと連れなうきがあるか」とその思いを告げたのがきっかけだった。しかし、それは決して周りから祝福されたものではなかった。親代わりというべき七敷の家からは縁切りされての嫁入りだったのである。セキの波乱の人生が始まった。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
劇団文化座は戦時下の1942(昭和17)年2月26日に結成される。同年4月第1回公演梅本重信作『武蔵野』で旗揚げ。敗戦間際の昭和20年6月、日本の現代劇の紹介という名目で満州に渡り2か月後に敗戦を迎え、一年間の難民生活を経て帰国。以来、「戦争と日本人」にこだわった作品、日本の底辺に生きる人々に寄り添った作品、現代を映す鏡となる現代劇を生み出し続けている。
日本による韓国併合の時代に朝鮮北部に産まれた李仲燮は、朝鮮の大地を愛し幼い頃より絵に描いていた。一九三五年、支配国である日本に渡り 、東京帝国美術学校、文化学院美術科で絵を学ぶ。在学中に山本方子と出会い魅かれ合うが、戦局も逼迫して一人、実家のある元山(ウォンサン)へと戻った。思いを断ち切れない方子は終戦間近の一九四五年、危険な玄界灘を一人渡り仲燮と再会する。二人は結婚、山本方子は李南徳(イ・ナムド
時は明治14(1881)年、商人や船乗りが行き来し活気あふれる小樽の町なかに、煮売り、代書、髪結、俥などを商う小さな店「きし屋」があった。そこに片寄せ合って生きているのは、年齢もバラバラ、といって家族でもない、いわくありげな三人の女とその仲間たちだった。彼女たちはなぜ結びつうき、ここ北の果て小樽にたどり着いたのか? そしてやくざから立ち退きを迫られている「きし屋」の運命は?
新しく日本の元号が変わって、昭和という時代はまたひとつ過去の時空へ遠のいていった。昭和……大きな敗戦を経験し、復興を果たした日本人は、ついに高度経済成長期を迎えて、めまぐるしく変貌した。この作品は、そんな反映と華やぎの陰で、じくじくと己れの肉体を蝕まれ、生命さえも脅かされた人々の声なき声を描いていく。
濡れ濡れべたべた この町の実在する小都市が雨にけぶる。近代とは、限りなく現代に近い過去。足元を水が流れる。調査によりますと、わが啄木研究会の温度は、全国平均より三十五%も高い。湿気の主な原因は、工藤一先生のよだれ、寝汗、つばき、たん。しかし、なんといっても最大の要因は雨。工藤一に雨が降る。石川啄木の本名も、一。はじめの一歩。啄木は七つになるまで、母方の工藤姓を名のった。しかし、こちらの工藤一、七つ
