1986年1月に世を去った土方巽の野辺おくり祭として、山形県の升玉村で開催されたイベント『土方巽野辺おくり祭「むしびらき」-東北舞踏ぶるまい升玉編ー』。プログラムによれば、50人近い舞踏家が参加し、主に10カ所の舞台を中心に村全体を会場に繰り広げられた。梅雨明けの縁側一杯に衣裳を広げる蟲干し、それを土方巽は「蟲開き」と呼んでいた。映像では元藤燁子、小林嵯峨、大野一雄等が踊り、フィナーレには多くの舞
舞踏の古代史の中には「鬼」「まれびと」「龍蛇」などが出たり入ったりしているように思う。現代人の身体の奥にも彼らは棲んでいるのだろうか。身体とは不思議で変な入れ物だ。記憶という川を遡り、瀧壺の底で光る一枚のウロコを手に入れる。それを合図に水龍と火龍の戦いが始まる。そんな修羅場こそ舞踏奴の独壇場である。男伊達、そこのけそこのけ奴が通る。恋に翻弄された鳴神上人も瀧を登って龍となる。新しい祭のはじまりだ。
「日月潭」とは「光と影」の物語である。そして「光と影」が織りなす迷宮を旅する男の「引き裂かれた魂」がお互いを探し求める物語でもある。あるときは鬼神に、またあるときは観音にも変化する「影」に誘われて、いくつかの扉を開いてゆく。水鏡の底から歩いてくるもう一人の自分。伸縮する迷宮の中で起こる死と再生の儀式。退行していく夢。夢という肉体が螺旋の渦に巻き込まれていく…。
「己の内奥の宇宙の目を向けること」‥‥‥これが舞踏の出発点であり、その目が何処についているのかが大切なことだ。足が二本に分かれてから我々は迷ってばかりいる。私は一本足の杭になり荒野に立っていたい。森羅万象の内に潜む秘密の階段は、我々の果てしない野に続く。私は急いで準備をするのだ。婚礼が始まる。風が吹いてくる。
元藤燁子からの誘いで古巣であるアスベスト館で週一回のワークショップを開講した和栗由紀夫が、「土方巽メソッド研究会」と名付けた会で、土方巽の孫弟子にあたる受講生と行った第一回目の公演。鼈甲飴とはフォルムのことで、それは人の形を指している。一人一人が自分の形を見つけ出す、そうあってほしいという思いをこめて和栗が名づけた。
好善社第二回舞踏公演。チラシより:土方巽氏に師事して以来、1979年「楼閣に翼」を舞台に好善社を設立。それから彼(和栗由紀夫)はパタリと沈黙し、ひたすら江戸小紋の染めの仕事に入る。そして7年後の今日の出来事である。1985年、スタジオ200で行われた「東北歌舞伎計画」に参助しながら、浮上する機会を暖めてきた。彼にとっての舞踏が燃焼し始めるこの時期は、亡き土方巽氏を思えば無念の心境であろう(彫刻家・