元藤燁子は前年の広島市現代美術館での公演で、野外彫刻として設置されていたアバカノヴィッチの彫刻作品にインスパイヤーされて踊った。その記録映像を見たアバカノヴィッチ自身から元藤のもとに共感のメッセージが届いた。その後、二人は国境を越えて手紙をやりとりして、創造について語り合った。抑圧された精神を内蔵する匿名の群像を舞踏の身体でどう表現できるのか。かくして、二人の演出・振付による舞踏作品が生まれた。
1952年、元藤燁子により東京、目黒に設立された。1950年代から60年代初めにかけては、津田信敏近代舞踊学校として前衛舞踊の活動拠点となり、1960年代には、土方巽がアスベスト館の名を与え、その後「舞踏」の創造の場として多くの作品を生み出した。
サンフランシスコ舞踏フェスティバルの参加作品。前年のポーランドに続く海外公演だが、舞踏が世界に広がってゆく中で元藤燁子が果たすべき活動も見えてきた。身体が天と地をつなぐという元藤燁子の壮なるイメージは、舞踏によって生の全体性を回復しようとする思想へとつながり、本作品が構想された。主演の元藤はロープを使い天と地をつなぎスケールの大きい作品となった。
元藤燁子は1959年に土方巽と出会って以来、その踊りの人生を文字通り土方巽とともに歩んできた。同じ年に生まれ、同じ時代を歩んできて、そしてアスベスト館を拠点に、舞踏を創造し、弟子を育成し、観客を生み出す活動をともに行ってきた。その渾身の二人三脚の歩みを懐古して、土方巽に捧げる舞踏の作品とした。舞踏の最初期からともに舞踏活動を担った大野一雄と大野慶人の共演を得て完成した作品。アスベスト館での初演。
元藤燁子は、1年に1回の公演のペースで新作をつくってきたが、この年1996年は大阪のTORII HALLから招かれての公演での新作発表となった。小さなホールでの公演であったので、秋の夜に物思いにふけるように、元藤燁子が静かに人生を回顧するような叙情的な作品であった。これまでの人生に沈潜してモノローグで語るように、これまで培ってきたバレエやモダンダンスのテクニックをも生かして踊った。
元藤燁子は前年アスベスト館で「アバカノヴィッチへの手紙」を上演。そのアバカノヴィッチと元藤の共同作品が、広島市現代美術館で改訂版として再演。戦争体験をもとに人間存在を問う作品として、同館の被曝50周年記念展のオープニングを飾った。本作は、「沈黙する肉体」のサブタイトルで、アバカノヴィッチの人体彫刻の無名性を舞踏の人体をもって表現しようと、情感を排し裸体で顔を隠した男性舞踏家の群舞で演じられた。