日本の夏1960〜64
日本の夏1960〜64
タイトルは、土方巽自身が自らの舞踏を表すアフォリズムとなっている。本作は、水戸芸術館での「日本の夏1960―64」の参加作品として、元藤燁子が構成・演出。1960年代前半期の美術における前衛活動を回顧する展覧会に、前衛美術家と協同した土方巽のオマージュとして発表。「肉体の叛乱」のフィナーレのシーンの巨大な写真パネルが吊られたエントランスのフロアで、元藤のほか、大野一雄、大野慶人らが踊った。
1952年、元藤燁子により東京、目黒に設立された。1950年代から60年代初めにかけては、津田信敏近代舞踊学校として前衛舞踊の活動拠点となり、1960年代には、土方巽がアスベスト館の名を与え、その後「舞踏」の創造の場として多くの作品を生み出した。
サンフランシスコ舞踏フェスティバルの参加作品。前年のポーランドに続く海外公演だが、舞踏が世界に広がってゆく中で元藤燁子が果たすべき活動も見えてきた。身体が天と地をつなぐという元藤燁子の壮なるイメージは、舞踏によって生の全体性を回復しようとする思想へとつながり、本作品が構想された。主演の元藤はロープを使い天と地をつなぎスケールの大きい作品となった。
元藤燁子が多田智満子の著作『鏡のテオーリア』を原作とする鏡の神話と伝説に、名古屋の鏡伝説を加えて構成した新作で、存在と無、時間と永遠の問題を身体で考察する舞踏作品となる。本作は、愛知芸術文化センター主催のイベントークPartⅥ「土方巽を幻視する」参加の舞踏公演であった。主演の元藤燁子と共演のアスベスト館の舞踏手たちに大野慶人が加わり、さらに大野一雄の特別出演を得て、重奏の舞踏空間となった。
元藤燁子は1959年に土方巽と出会って以来、その踊りの人生を文字通り土方巽とともに歩んできた。同じ年に生まれ、同じ時代を歩んできて、そしてアスベスト館を拠点に、舞踏を創造し、弟子を育成し、観客を生み出す活動をともに行ってきた。その渾身の二人三脚の歩みを懐古して、土方巽に捧げる舞踏の作品とした。舞踏の最初期からともに舞踏活動を担った大野一雄と大野慶人の共演を得て完成した作品。アスベスト館での初演。
1986年1月に世を去った土方巽の野辺おくり祭として、山形県の升玉村で開催されたイベント『土方巽野辺おくり祭「むしびらき」-東北舞踏ぶるまい升玉編ー』。プログラムによれば、50人近い舞踏家が参加し、主に10カ所の舞台を中心に村全体を会場に繰り広げられた。梅雨明けの縁側一杯に衣裳を広げる蟲干し、それを土方巽は「蟲開き」と呼んでいた。映像では元藤燁子、小林嵯峨、大野一雄等が踊り、フィナーレには多くの舞