おそらくは誰もが子どもの頃、一度は遊んだことがあるシーソー。その語源はsee「見る、反復する」+saw「のこぎり、前後に動かす」らしいですが、この"see"と"saw"という現在と過去の単語がひとつになったこの言葉からは、さまざまな記憶のイメージが浮かんできます。ギッタン、バッコンと上になったり、下になったりを繰り返しながら、それぞれの高さで、僕らはそこからなにを見ていたのでしょうか?そしてそのと
This is weather news.いつも想像してみる。こうなればいい、こうなればいいって。This is weather news.でもそうなることなんてほとんどない。This is weather news.明日は、晴れなのか、雨なのか、本当は決まってる。This is weather news.This is weather news.私たちにはそれが分からない。でもそれを悲しいとは思
悲劇的な立場に置かれた5人の女優が、自らの不条理な状況を憂い、飾り立て、時に正当化しながら、自身の不幸を声高らかに語りあげます。現実社会で起こるリアルな悲劇と、不幸な自分に酔い不幸を誇張するフェイクの悲劇、また舞台上のフィクションとしての悲劇という3つの異なる時空から「悲劇」の構造を捉えることで、自分とこの世界の関係性を見つめ直します。 今を生きる私たちにとって「悲劇」とは何か、また人々は不条理と
「リアルリアリティ」身体を省略し拡張する人はできるだけ動かなくてすむようにテクノロジーを駆使するそれに抗うつもりはない 楽がいいそれでもどこまで省略しようとするのか ふと不安になる人々の想像は 遥か彼方にある場所や 過去や未来にある時間をあたかも今ここにあるかのように具現化しようとするそれでも人は遠くでおこっている悲劇を想像することすらできないそこにある身体を共有することができないなにもない場所に
Nibroll結成立10周年作品 /日本ダンスフォーラム賞受賞作品
ねえちょっと、みてみてよ。腺、腺、腺、ばっかり。ぼくと犬に、あなたの猫に。誰かさんと一緒に暮らすこの部屋に。街行く他人の体の中に。全て乗り越えられない境界線。ただあるだけの境界性。ロールしながら、じっと見る。
1本の老木をめぐる3つの物語。時代の転換点に浮かび上がる多様な思考。チェーホフの名作『桜の園』をベースに矢内原美邦が独自の視点で描いた1本の老木をめぐる3つの物語。この木を伐るか、否か。そこにはそれぞれの主張があり、賛成があり、反対があり、いくら言葉を費やしても果たしてそこに正解はない。言葉は意味を失い、時間を失い、どこか遠くのほうをさまよいはじめる。もう誰も信じない... 君が「そうだ!」という
これは、 どこにでもある町の、よく眠ることができる夫婦の、 ある「静かな一日」のお話です。でも本当は「静かな一日」など、どこにもありません。私たちが住んでいる現実に「静かな一日」が、どこにもないっ!のと同じように。私たちは後ろ向きになって、徐々に、南に傾いていく家を見上げながら、日陰を選んで、畏れを飲み込み、日々を生きます。形は決して残りません。形は決して残りません。日々を、私たちはただ日々を積み
2015年度に開館10周年を迎える吉祥寺シアター。また、吉祥寺シアターのこけら落とし公演をきっかけに始まった「ミクニヤナイハラプロジェクト」も同じく 10周年を迎えます。両者の10周年記念公演として。超高速な発話と激しい動き、デフォルメされたキャラクターが特徴である「ミクニヤナイハラプロジェクト」が、全く逆の「静かな演劇」と評される平田オリザの名作『東京ノート』にどのように挑むのか。2015 年の
すれ違う時間のなかで、彼はどんな記憶を彼女に残したろう。はっきりとそこにいるのに、キミはまるでずっと遠い果てからやってきた光がかろうじて描いただけの幻影のようだ。違う時間、違う場所で生きてきた人たちが時空を超えて出会い、やがて別れる。はじまって、それから、いつかおわる私たちに捧げる「初めての生」と「やり直しの死」の物語。
2002年の初演で世界に衝撃を与えたNibroll『コーヒー』を16年ぶりに横浜ダンスコレクション2018のオープニング・プログラムとして再演。映像作家・吉開菜央が、再創作の過程、オーディションで選ばれたダンサーや関係者へのインタビュー、公演本番などをドキュメンタリーとして映画化した作品を公開。[作品ノート]人が社会と無縁ではいられないように、この作品も また当時の社会や時代背景の影響を強く受けて
極小空間である梅ヶ丘BOXに作られた『斜面』を、炭鉱の坑道や戦時下に人々が隠れる洞窟、または永久機関の実験室など様々な場所に見立て、劇中人物が「なにもしない」「なにもおきない」という現象を仮構する。原発内の作業者や炭鉱の抗夫たち、戦時下、洞窟に逃げ込んだ人たちのような危険と隣り合わせの日々を送る人たちにとっては、「なにもおきない」、つまり日々の営みを無事に終えられることこそが何より大切なのだと気づ