(パンフレットより)一月に書いた文章を眺めている。あれから、なにを経て。どんな音を聞いて、どんな光景を目に映して。どんな時間を過ごしてここまで巡り、辿りついただろう。想像もしていなかったようなことは、やはり起こる。それに伴って、線なんか引かれていなかったところに線は引かれていく。内側と外側があるのだと知る。部屋のなかで窓より外の世界を想像するのがこんなにも不安なことだった、だなんて。しかし、やはり
(パンフレットより)じっさいにその作業をするのにかかる時間をつなぎあわせて、どういうヒカリを暗闇のなかにいれて、物事を、風景をみつめていたか、ということをあらためて取り組んでみてかんがえた。おそらく、みえているものすべてが本物ではないことは、幼いころからわかっていた。では、本物はどこにあるのだろうか。右眼を塞いで、左眼だけで遠くのほうをみつめながら、そんなことを想っていた。ぼやけた画面のなかに、本
(パンフレットより)生まれてきた奇跡のさきへつづく旅路。それは森であり、夜である。ただ歩いていくのは困難で、立ちはだかるものをまえに立ちつくす。見たくないもの、聞きたくないものに触れてしまう瞬間が、やがて誰しもに訪れる。ときに、どうしてこんな世界に生まれてきてしまったのだろう、とおもうかもしれない。けれども、生まれてこなければ出会えなかった。たまには立ちどまって、来た道をふりかえってくれていい。思
(パンフレットより)三年前にこの作品は一度、故郷の北海道伊達市で、終わりを迎えたはずだった。だけれどまたこうして取り組んでいるのは、この三年間で家という生命体そのものが、現在という時間のなかでどう在ればよいのか、という問題が自分のなかで、まるで変わってしまって、膨らみつづけていたからだろう。現在という時間は想像できているだろうか。あのころの食卓のこと。ひとりひとりの表情を。家という生命体の内臓は、
2014年に小説家・川上未映子のテキストを用い、青柳いづみ出演で「まえのひ」を上演。その第2弾となる本作は、川上の詩集「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」「水瓶」より、主に7篇の詩を使用して、6つの演劇を立ち上げた。各作品の衣装を6人のクリエイターやファッションブランドが担当。
「コドモも、モモも、森んなか」いつか、モモとゆう存在を、なくすのだとわかってはいたけれど、やっぱりなくしてしまって、そのことがやっぱりおおきかった。七月だった。モモが、なくなったのは。かんがえちゅうで、まだまとまらない。モモが、なくなってしまって、鳴らなくなった音があった。でもそれでも、物音がすると、モモじゃないかと振り向いてしまう。まだモモが、いるような気がして。音をさがす。そんな時間を、つくら
(パンフレットより)おもえば、いつだって夜だった、たとえ朝がやってきたとしても、それは時間がそうさせているだけであって、夜であることに変わりはなかった。たまに笑ったのだとしても、それは夜に笑ったにすぎない。そうだ、夜だった、と我にかえって表情を失くすのだった。さいきん、ますます夜は暗闇を増すばかり、どうしたらこの暗闇から抜けることができるだろうか、なんてかんがえるだけ無駄かもしれない、もはや。だけ