「友達」という関係性は何を示すのかを問いかけるいいへんじの新作公演。友達だと思える人がいないことがコンプレックスだった吉村は、北区周辺で路上ライブをしている売れないシンガーを追っかけることだけが生きがいだった。ある日、いつものように赤羽駅前で彼の歌を聴いていると、偶然通りすがった真壁という女性に出会う。「また会えるかも」とかろやかに去っていく彼女と、吉村は「友達になりたい」と思う。
集団と、集団の言葉と、言葉の意味の侵入を基礎とする新しい舞台。大きな集団に生まれる小さな集団たちが、言葉の意味の侵入を自覚的と無自覚的に行ない合いながら膨張し、飽和し、収縮し、最後に残るべきものことの何かが残る。または何も残らない。という群像になる。
ある日、チキン南蛮は過食嘔吐癖のある加奈子に吐かれ、無念から地縛霊になりました。友達のいなさから発狂しそうになった加奈子はインコを飼い始めましたが、相手は鳥。そうそう思い通りにいきません。そんな中、初めての彼氏が出来ました。これは依存症の女の子とチキン南蛮の地縛霊とインコとプレイボーイが出て来る、チキン南蛮を消化するまでのお話です。
パワハラが起きてしまった劇団の稽古場とアルバイト先の往復で疲れ切ってしまった青年を主人公に、どうすればそんな厳しい毎日から抜け出すことができるのかを描いた「ハラスメント・コメディ」
「マラソン大会をボイコットする」はしらなければ、きっとかっこいい。周りの流れに身を任せず、はしらないつもりだった。時間は過ぎて、高校の同窓会。あの日あのとき、なんだかんだ言ってはしりきってしまった自分を止めるため、いくつもの「ありえたかもしれない」世界線をうろちょろ駆け回る。「わかっちゃいるけどやめられない」を号令に「だらしなさ」をどこまでもストイックに描く劇団スポーツの青春似非SF群像劇。
過去に対する後悔と向き合い、新たな人生を生き直すことはできるのか?すべての人に贈る人間賛歌!あり得たかもしれない世界を求めて、過去をやり直していく。後悔を引きずり続けるぼくたちの、戻れない過去を丸ごと一からやり直す《青春記憶改竄コメディ》
金子鈴幸が約一年半ぶりに作・演出を手がけた新作公演。2022年の日本においてどのような物語が【有効】なのか?という問いを出発点に、人間の持つ「どうしようもない部分」に光を当てるような作品となっている。とあるラーメン屋の店主、まさこ。彼女はラーメン界でも「元アイドル」という異色の肩書きで営業していた。「究極の一杯」を探求し、ラーメン道を日々邁進する彼女。その日もいつもと変わらない一日のはずだったが…
谷崎潤一郎『春琴抄』を原案に3箇所同時にパフォーマンスが行われる観客回遊型の作品。6人の俳優が3組の分かれいくつか同じ場面を入れ替わり立ち替わり演じながら上演は進んでいく。学校レイヤーと春琴抄レイヤー、また現実と地続きである劇場レイヤーがシームレスに入れ替わることで「みられる側/ケアされる」と「みる側/ケアする」が逆転していく。また、観客回遊型であるからこそ、みる/みないの選択も観客人身に委ねられ
―――つかぬことを伺いますが、わたしのこの身体はどこの誰のものですか。現代美術家と手をとり、“ミュージカル・ミーツ・現代アート”と銘打った本作では、よりフラットな視点から舞台、とくに演劇という表現形態が見つめ直された。「主人公の若者が入院中に舞台作品の台本執筆を通じて、青春からの脱却を果たす」という物語のなかで、音楽とともに夢と現を行き来しながら、ドラマならびに劇場空間全体からあらためて演劇の演劇