1980年代という大きな時代的変化を何とか生きようとする中年世代の生の感覚――それと新劇の老劇作家とキャリアを持った女優たちの現在を重ねてみるというプランのもと太田省吾が書き下ろした1990年の『木を揺らす』。出演していた俳優たちが、何年か毎にくりかえし演り続けたいという提案が実現した作品。しかし4年の歳月はかなりの変化をもたらす年月であったため、書きかえを重ね『木を揺らす-2』となった。
瀬戸内海の美しい叙情と人びとの哀歓をうたいあげる小山祐士作品。1963年初演いらいロングラン上演を重ねた名作を丹野郁弓が新演出、日色ともゑがハナ婆さんを継いでいきます。瀬戸内海の小さな島で一人質素に暮らすハナ婆さんは、貧しいながらも9人の子どもを産み、戦地と原爆で全員を亡くした哀しい過去を持っていました。そのハナ婆さんを堕胎の罪で逮捕しにやって来た木下刑事もまた、誰にも言えない苦悩を抱えていたので
電信柱、街灯、ポリバケツ・・・その上に登場するホームレス風の爺さんとばあさんが、ダンボールを引きずって現れるのだから、もうこれは完璧な別役実の世界。路上でのコント風の会話がいつの間にか愛のゲームのような濃密で危険な関係になっていく・・・。何かを確かめるかのように語り続ける老人二人の孤独が美しく、哀しい。95年6月木山事務所初演で凍みるような感慨を呼んだ。
マスクプレイミュージカル
奇想天外なストーリーで冒険好きの子供達を夢中にさせた、L.F.バウム原作の名作童話をマスクプレイミュージカルに!ないものねだりの、かかし、ブリキ、ライオンが欲しかったものは、実はみんな最初から持っていたことに気づきます。そして主人公ドロシーの一番大切なものも、実は自分の足下に輝いていました!それぞれの成長を描いた、感動の冒険ファンタジー作品です。
古典的先住民姿の少女が語る、いつとは知れない、しかし先祖代々伝えられてきた物語ーその年は天候不順で食糧の蓄えができないまま厳しい冬がやってきた。危機に瀕した集団のリーダーは、口減らしのため、お荷物となっていた二人の老女を棄てる決定を下す。それは老人を敬い大切にする伝統に背く決断であった。彼らは食糧を求めて旅立っていく。棄てられた二人の老女は、悲しみ、恨み、怒り、そして絶望の淵に立たされる。しかし死
男は演出家。家では夫、父、息子。オイディプス演出中に発病し、入院する。癌と疑い、医師、家族、友人に真実を教えるよう迫る。嘘と隠蔽の中、彼はオイディプスと自らの行動を比較。不治と察しつつ、家族の思い遣りを傷つけまいとする。オイディプスに重ね合わせ死を見据えるうち、日本の風土や人情を容認する気持ちになる。クリスマス、友人と家族と共に、そのひと時を心から楽しもうとする。外にはすべての汚れを払う雪が舞う。
開けてはいけない箱を誘惑に負けて開けてしまったパンドラ。箱から飛び出した災いと希望が現代の芸能界を舞台に繰り広げられる。不幸、病気、欲望、絶望、嫉妬などさまざまな災いに見舞われる人々。どん底まで落ちた人々にも最後の最後には必ず希望がある。それぞれの災いを乗り越えて希望へとたどり着く人々。
タビネズミは異常発生が起こると集団で移動し、時に河などで大量死するという。これは繁殖を適正に調整する淘汰の一種との説をも生み、人類の文化史観に影響を与えている。作品はタビネズミにおける死の舞踏を描く。異常発生の中、突如、舞踏狂が巻き起こる。盲目のネズミ(若松)を除く全群が乱舞し、嬉々として川に飛び込み溺死する。佇む盲目のネズミ。一転、人間に変身。場面は街角。傍らを、幼児の手をひく妊婦が通り過ぎる。
メタファーとしての王の最期を描く。専制的な帝王が没落の道を辿る。将軍は背き、愛妾は逃げ、王は捕えられ処刑が言い渡される。王を捕えた者が次の王になる。それは昨日までの王の道化であった。死の直前の王。この人生の皮肉は「一場の夢」だ。青春の終焉、定年、或いは肉体の衰え、栄枯盛衰、大自然の四季の移ろいなどのメタファーとして描かれる。次の王が昨日までの道化なら、今までの王もかつては道化であった、という苦さ。