古典的先住民姿の少女が語る、いつとは知れない、しかし先祖代々伝えられてきた物語ー
その年は天候不順で食糧の蓄えができないまま厳しい冬がやってきた。危機に瀕した集団のリーダーは、口減らしのため、お荷物となっていた二人の老女を棄てる決定を下す。それは老人を敬い大切にする伝統に背く決断であった。彼らは食糧を求めて旅立っていく。
棄てられた二人の老女は、悲しみ、恨み、怒り、そして絶望の淵に立たされる。しかし死に直面した彼女たちに、生きる本能、長年培われてきた経験・知恵が徐々に蘇る。
二人は決意する-「生きてやろうじゃないか!」。そしてサバイバルの闘いがはじまった......。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
劇団文化座は戦時下の1942(昭和17)年2月26日に結成される。同年4月第1回公演梅本重信作『武蔵野』で旗揚げ。敗戦間際の昭和20年6月、日本の現代劇の紹介という名目で満州に渡り2か月後に敗戦を迎え、一年間の難民生活を経て帰国。以来、「戦争と日本人」にこだわった作品、日本の底辺に生きる人々に寄り添った作品、現代を映す鏡となる現代劇を生み出し続けている。
栃木から上京し旅館で女中奉公をしていた戦中、彼女には仄かに思いを寄せる陸軍少尉がいた。タヅは自分の気持ちを殺し、思い合っていた少尉と同僚とよの間を取り持とうと腐心していた。しかし少尉はサイパンで戦死する。その後タヅは結婚するも、夫は戦災のところに入り浸るなど、不幸な結婚生活を送る。二人の娘を授かるも夫は病死、女手一つで育て上げた。そして現在。タヅは何を思ったか、新婚4カ月で亡くなった次女の亭主・和
歌合というのは、越後の親不知から、断崖を削ぎ割ったようにして入りこむ歌川渓流にそい、約5キロばかり山奥へのぼりつめたところにある寒村である。戸数はわずかに十七戸。大正八年、この村に住む瀬神留吉という男の許へ、おしんという美しい娘が嫁いできた。不幸な生い立ちのおしんにとって、留吉と老母いねとの生活は、貧しいながらも初めて仕合わせな生活と呼べるものであった。だが、夫の留吉が杜氏として伏見へ出稼ぎに出て
時は明治14(1881)年、商人や船乗りが行き来し活気あふれる小樽の町なかに、煮売り、代書、髪結、俥などを商う小さな店「きし屋」があった。そこに片寄せ合って生きているのは、年齢もバラバラ、といって家族でもない、いわくありげな三人の女とその仲間たちだった。彼女たちはなぜ結びつうき、ここ北の果て小樽にたどり着いたのか? そしてやくざから立ち退きを迫られている「きし屋」の運命は?
新しく日本の元号が変わって、昭和という時代はまたひとつ過去の時空へ遠のいていった。昭和……大きな敗戦を経験し、復興を果たした日本人は、ついに高度経済成長期を迎えて、めまぐるしく変貌した。この作品は、そんな反映と華やぎの陰で、じくじくと己れの肉体を蝕まれ、生命さえも脅かされた人々の声なき声を描いていく。