タビネズミは異常発生が起こると集団で移動し、時に河などで大量死するという。
これは繁殖を適正に調整する淘汰の一種との説をも生み、人類の文化史観に影響を与えている。
作品はタビネズミにおける死の舞踏を描く。
異常発生の中、突如、舞踏狂が巻き起こる。盲目のネズミ(若松)を除く全群が乱舞し、嬉々として川に飛び込み溺死する。
佇む盲目のネズミ。一転、人間に変身。
場面は街角。傍らを、幼児の手をひく妊婦が通り過ぎる。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
前衛的な踊りで知られた津田信敏に師事した若松美黄と津田郁子が設立した「若松美黄・津田郁子自由ダンスカンパニー」が、1969年の「回復路線」を皮切りに2009年の「笑いの箱」まで毎年42回連続して行った公演。そのうち「ふり」「村へ帰る」「暗黒から光へ」「ジーキル博士とハイド氏の寓話」が文化庁芸術祭優秀賞を受賞している。
初舞台がレ・シルフィードだった若松にとってシルフィードは青春の響きを持っていた。イサドラ・ダンカンのショパン集をフォーキンが監修、グラズノフやケラーがショパンの曲をバラバラに変造し組曲を創り上げ、ラ・シルフィードをもじってレ・シルフィードと名付けた。これはモダンバレエの始まりでもある。羽衣、シルフィードともに男性の理想だった。理想は現実となった時消え去り、達することのできない理想ほど美しい。
ニューヨークのバレエ教師クビノ氏は、紙を丸めて空中にほおり投げ、「これがバレエだ」と言った。自然の落下そのもののことを。レッスン帰りにオペラハウスの噴水前で踊ったものだ。笛を吹くのは仕事も家もないその日暮らしの自然食主義者。彼の生活が自然の生活ならば、やはり重すぎる。自然を一向によくわからないままに、その美しさに感嘆し心がやわらぐ。キドラない、ガンバラない踊りを踊りたい。それは自然か、不自然か。
ダンスがみたい!
大学卒業後53年。一日に1~2回は笑うから、合わせて四万回近く笑った勘定になる。その笑いを棺に詰めあの世に旅立つ人生を考えています。(若松談)自由ダンスを提唱する若松の、エッセイ風なダンス。地蔵像の前の踊りから始まり、歌あり、詩の朗読あり。客席やバックヤードで弟子達が合唱する。「歌って踊るというのではなく、人生のあがきでもあります。少し言いたいことがあるプリコラージュな身体」夕焼けの中で、一人踊る
世の中というものが本当に立派なものなら、世の中に根ざした私の悲哀も立派なしっかりしたものであろう。世の中がメチャクチャと思うなら、悲哀も、メチャクチャに分解するものと思いたい。夜も朝も、生まれる前も死した後も、同じように生き残っていくものなのか。作品中、現代のルーツである30年代の悲哀が顔を出す。老化に向かう肉体が抱く嘆き節が、当時の流行にのっかり軽薄にロマン的回顧に滑り込むということなのだろう。