江戸三味線音楽の変遷
江戸三味線音楽の変遷
幕府が開かれた後の江戸の三味線音楽がどのような変遷を辿ったのか
明治9年(1876)から明治21年(1888)まで
明治に入って年号が変わっても人々の意識がすぐ切り替わるわけではありません。まだ華やかに色濃く江戸の存在を残していた明治33年(1900)までを2回にわたって取り上げます。
お話 竹内道敬
常磐津「戎詣恋釣針(釣女)」(1883年)
浄瑠璃 常磐津初勢太夫、常磐津光勢太夫、常磐津千寿太夫、常磐津初應太夫
三味線 常磐津文字蔵、常磐津齋蔵
上調子 岸澤満佐志
宮薗節「薗生の春」(1888年)
浄瑠璃 宮薗千碌、宮薗千よし恵、宮薗千佳寿叡
三味線 宮薗千佳寿弥、宮薗千幸寿、宮薗千佳寿奈
長唄「元禄風花見踊」(1878年)
唄 杵屋利光、杵屋巳之助、杵屋佐喜、杵屋勝英治
三味線 杵屋巳太郎、柏要二郎、杵屋巳佐、杵屋巳千雄
囃子 望月晴美、梅屋巴、堅田喜三代、梅屋右妃
笛 鳳聲千晴
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
オンデマンド配信。
日本製鉄文化財団は、紀尾井ホールを拠点に音楽分野(洋楽および邦楽)における音楽家の育成、演奏会等の開催、優れた音楽活動に対する支援を目的として1994年に設立されました。クラシックコンサートホール(紀尾井ホール800席)、日本の伝統音楽専用ホール(紀尾井小ホール250席)において、当財団はホール専属のオーケストラである紀尾井ホール室内管弦楽団の運営を始め、クラシック音楽、日本の伝統音楽公演の企画・制作等を行っています。これらを通じて我が国の音楽文化のさらなる発展に寄与することを目指しています。
江戸三味線音楽の変遷
幕府が開かれた後の江戸の三味線音楽がどのような変遷を辿ったのか文政9年(1826)から嘉永3年(1850)まで能楽趣味が流行、天保の改革で天保13年(1842)に劇場以外での三味線の演奏が禁じられるも、長唄全盛時代へ。お話 竹内道敬常磐津「年増」(1839年) 浄瑠璃 常磐津兼豊、常磐津嘉代、常磐津文字満咲 三味線 常磐津文字東久、常磐津孝野清元「女車引」(1848年) 浄瑠璃 清元延
当代の至芸を、芸談と演奏で余すところなく存分に堪能する「きく会」不世出の名人 堅田喜三久の音世界に浸る一日杵屋正邦作曲 「重陽」小鼓 堅田喜三久長唄「島の千歳」 唄 今藤政貴、今藤長一郎、今藤龍之右 三味線 今藤政太郎、杵屋栄八郎、今藤政十郎 小鼓 堅田喜三久 堅田喜三久構成 囃子組曲 「獅子」 笛 中川善雄 小鼓 堅田新十郎 大皷 堅田喜三郎 太鼓
当代の至芸を、芸談と演奏で余すところなく存分に堪能する「きく会」地歌・生田流箏曲 米川文子の柔らかい音楽性と高い技術による魅力あふれる公演「八段の調」 箏替手 米川文子 尺八本手 山本真山「楓の花」箏本手 米川文子 箏替手 米川敏子対談 米川文子、徳丸吉彦「残月」三弦替手 米川文子 三弦本手 富山清琴
紀尾井たっぷり名曲 義太夫
「伊賀越道中双六」は赤穂浪士・曽我兄弟仇討とあわせて天下三代仇討の一つといわれています。「沼津の段」が有名ですが、「岡崎の段」は、山場の一番です。助太刀の政右衛門は雪の夜岡崎で関所を破り、旧師に救われます。そこへ別れた女房お谷が乳呑子をつれて門までたどりつきますが、政右衛門は義のためわが子を刺し殺す悲劇を描いた文楽屈指の難曲です。確かな技と感性が魅力の竹本千歳太夫と豊澤富助が語りきります。