イサドラ・ダンカンやトルストイの孫娘との結婚など、派手な人間関係を持ったロシアの詩人セルゲイ・A・エセーニンは‟最後の田園詩人”として自然を詠い、農婦を聖母マリアに比した。自らを「何かから離れる詩人」とみなした束縛を恐れ放浪する天性。そのラストメッセージから『人生は一場の笑、生が偉大なものでないのに、死だけが偉大であり得ようはずがない』と意を汲み、登場人物を道化としてエセ―ニンに対比させている。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
前衛的な踊りで知られた津田信敏に師事した若松美黄と津田郁子が設立した「若松美黄・津田郁子自由ダンスカンパニー」が、1969年の「回復路線」を皮切りに2009年の「笑いの箱」まで毎年42回連続して行った公演。そのうち「ふり」「村へ帰る」「暗黒から光へ」「ジーキル博士とハイド氏の寓話」が文化庁芸術祭優秀賞を受賞している。
死の舞踏には二種類ある。宗教的観念に根ざすDanses des Morts、生き延びた人が死を茶化す要素もあるDanses Macabres。世界中に「死の愛好文化」の遺産がある。どの時代も、多産が飢饉や戦争による大量死と対抗したのだろう。バタバタと愛する者の死を経験し、死によって初めて生が価値づけられ、芸能は痛みを見極めることだと思い始めた。私の舞踊は最近、神や絶対者のための芸術であるより、儚い
男は演出家。家では夫、父、息子。オイディプス演出中に発病し、入院する。癌と疑い、医師、家族、友人に真実を教えるよう迫る。嘘と隠蔽の中、彼はオイディプスと自らの行動を比較。不治と察しつつ、家族の思い遣りを傷つけまいとする。オイディプスに重ね合わせ死を見据えるうち、日本の風土や人情を容認する気持ちになる。クリスマス、友人と家族と共に、そのひと時を心から楽しもうとする。外にはすべての汚れを払う雪が舞う。
誰もが完全な善ではいられない。誰もが内に持つ善と悪。ジキルとハイドは悪の甘美な誘惑に負け罪を犯してしまう。最初は小さな罪を。やがて大きな罪へ。ジキルとハイドの最後は首吊り自殺だ。ユラユラと揺れる身体は善と悪の間で揺れる2人の心のようだ。
映画監督ヴィーネによって有名になった「カリガリ博士の箱」をバレエ化した。物語は精神を病んだ男の妄想の話。人体実験をする博士。実験の為に誘拐されてしまう女性。女性を助けようと乗り込んだが捕らえられてしまう男性。実験によって狂わされていく女性と精神を犯されていく男性。最後は病んだ男性が自分は博士だと思い込み博士と女性を殺し、自身も炎にまみれるところで終わる。何処まで事実で何処からが妄想なのか?