歌合というのは、越後の親不知から、断崖を削ぎ割ったようにして入りこむ歌川渓流にそい、約5キロばかり山奥へのぼりつめたところにある寒村である。戸数はわずかに十七戸。大正八年、この村に住む瀬神留吉という男の許へ、おしんという美しい娘が嫁いできた。不幸な生い立ちのおしんにとって、留吉と老母いねとの生活は、貧しいながらも初めて仕合わせな生活と呼べるものであった。だが、夫の留吉が杜氏として伏見へ出稼ぎに出ていた時、悲劇がおしんを見舞った。身内の不幸でたまたま帰郷していた、<桑っ子>と呼ばれる権助と出会ってしまい、強引に軀を奪われてしまったのである。そして数か月後、おしんは自分が身ごもっていることを知るのだったが…。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
劇団文化座は戦時下の1942(昭和17)年2月26日に結成される。同年4月第1回公演梅本重信作『武蔵野』で旗揚げ。敗戦間際の昭和20年6月、日本の現代劇の紹介という名目で満州に渡り2か月後に敗戦を迎え、一年間の難民生活を経て帰国。以来、「戦争と日本人」にこだわった作品、日本の底辺に生きる人々に寄り添った作品、現代を映す鏡となる現代劇を生み出し続けている。
濡れ濡れべたべた この町の実在する小都市が雨にけぶる。近代とは、限りなく現代に近い過去。足元を水が流れる。調査によりますと、わが啄木研究会の温度は、全国平均より三十五%も高い。湿気の主な原因は、工藤一先生のよだれ、寝汗、つばき、たん。しかし、なんといっても最大の要因は雨。工藤一に雨が降る。石川啄木の本名も、一。はじめの一歩。啄木は七つになるまで、母方の工藤姓を名のった。しかし、こちらの工藤一、七つ
時は江戸末期から明治にかけて。常陸の国の水呑み百姓・仙太郎はあまりの凶作に年貢の減免と取立の猶予をお上に訴えるが、この地の有力者・北条の喜平はそれを許さず、彼を村から追い出してしまう。復讐を誓った仙太は江戸で剣法を学び、博徒となって故郷へと戻る道すがら、ひょんなことからとある茶屋で頼まれごとをされ、それをきっかけに水戸天狗党絡みの騒動へと巻き込まれていく。仙太の剣の腕と男気を目の当たりにした党から
昭和もまだ穏やかななりし頃、東京は下町、老舗の飴菓子製造販売店「ささなみや」放蕩者の主人・久四郎は一向に店を顧みないばかりか、外では一体何をしていることやら。でも元気で働き者のお内儀・ちからによって何とか店は切り盛りされているようです。どんなことが起ころうと持ち前の負けん気の強さで吹き飛ばしていくちから。しかし時がたつにつれ、戦争に向かって世間の雲行きも怪しくなってきました。店は勿論、成長した子供
昭和十六年、、若狭の堀口家では、当主文蔵の野辺送りが行われていた。うるし取りで一代の財産を築いたにもかかわらず、放蕩の血が、いつしか体内を蝕んでいたのである。そんなおりもおり残された妻りんのもとへ、二人の若者が訪ねてくる。文蔵が舞鶴の女に産ませた富吉と、弟の千太である。日陰の身であった下駄職人の富吉を憐み、りんは実母のような労りを見せる。富吉もりんの優しさに応え、下駄作りに励むのだったが、その心に