グラーツ市の寄宿学校の廃校を舞台に行ったサイトスペシフィックパフォーマンス。
サンクト・ペテルブルグ市よりEugeny Koylovを共同振付家として招聘し、吉岡由美子のワークショップ生と2週間合宿して創作。美術家Joachim Mangerのインスタレーションも力強いエレメントとなって踊りと絡み合った。1995年より年に一度開催されている同様のプロジェクトの第2弾。飛行機の修理場にも使用された巨大な採石場での第3弾は、残念ながらビデオが失われた。
tatoeba-THÉÂTRE DANCE GROTESQUE(タトエバ・ シアターダンスグロテスク)は、1987年、ダンス・ラブマシーン出身の舞踏家・関美奈子とベルリンの舞踏家・パフォーマーであるデルタ・ライが西ベルリン初の日本人とドイツ人カンパニーとして創設。1988年にはアリアドーネの會の創立メンバーとして活動していた吉岡由美子も参入。日本の舞踏と1920年代のドイツの表現舞踊を融合させ、日常の実存的な経験を詩的に可視化するという新たな表現形式を生み出し、ベルリンを中心に活動。多彩な作品をもってヨーロッパ、日本を巡演。
東京、アビニヨンで上演の伊藤キムと吉岡由美子のコラボ"綺女と珍獣プロジェクト"第2弾。コンセプトはパラレルソロ。同時進行していた二つのソロ(吉岡の"しおきばにて" と伊藤の"コレクター")がいつの間にかデュエットになっていく。両ソロともアウトサイダーたちをテーマに紡ぎ出された境界線上の踊り。Berlin Tagesspiegel 紙は、楽園で追いかけっこをして戯れている者たちの悦楽と追放された者た
1989年のベルリンの壁崩壊の後に、前衛アーティストたちによって占拠され、ベルリンカウンターカルチャーの中心となった旧東ベルリンのタヘレス劇場(1990-2012)に招待され、上演された。ダンスへの補助金がほとんど出なかった70年代、80年代に舞踏家の多くはキャバレーダンスによって、生活費や公演の制作費用を稼いでおり、金粉ショーはキャバレーダンスのハイライトとも言える。
日々 ヴォルテージが高まっていった壁崩壊直前のベルリン特別地区の一角にあるバルハウス劇場を借り切って上演されたサイトスペシフィックパフォーマンス。劇場のあらゆる空間を踊りの場に変容させたいというデルタ・ライの考案を実現するために、総合演出、振付家の古川あんずを招聘。オーディションで集めた46名のダンサーと1ヶ月の稽古を経て上演。連日満員となり、しばし、ベルリン芸術家の間でも語り草となった伝説的作品
日本より、古川あんずを演出家として招待、tatoebaのメンバーとの共同振付で上演された。凍える寒さのベルリンに住んでいると、太陽の光の集まる陽だまりは、オアシスのように私たちを惹きつける。人間のみならず、獣や虫や花も光の中でほどけたり、闇の中でくつろいだり、さまざまに形態を変容させていく。光と闇の交錯の中で、生きとし生けるものたちの命のさまを タペストリーのように陰影深く織り込んでいった作品。