今も昔も津軽富士、お岩木山は津軽の衆の守り神。おいわきさんのそれはそれは大きな池がありました。戦乱の世が続き、織田・豊臣・徳川と天下が移り変わるなかで、平穏だったこの土地にもさまざまな人やものが流れ込んできました。ところで、この池に住む「てながえび」のてはどうしてこんなに長くなったのか――。この池にやってくる人間や、池に棲みついた「あししばり」という妖怪が登場する幻想的な物語は、なんとも愉快なほのぼのとした雰囲気を漂わせ展開しますが、池の住人である「はす」や「てながえび」からみると不可解な、そしてどうしようもない人間の<さが>がやがて浮かび上がってきます。
演劇博物館別館6号館3階「AVブース」にて視聴可能です。
劇団文化座は戦時下の1942(昭和17)年2月26日に結成される。同年4月第1回公演梅本重信作『武蔵野』で旗揚げ。敗戦間際の昭和20年6月、日本の現代劇の紹介という名目で満州に渡り2か月後に敗戦を迎え、一年間の難民生活を経て帰国。以来、「戦争と日本人」にこだわった作品、日本の底辺に生きる人々に寄り添った作品、現代を映す鏡となる現代劇を生み出し続けている。
時は明治14(1881)年、商人や船乗りが行き来し活気あふれる小樽の町なかに、煮売り、代書、髪結、俥などを商う小さな店「きし屋」があった。そこに片寄せ合って生きているのは、年齢もバラバラ、といって家族でもない、いわくありげな三人の女とその仲間たちだった。彼女たちはなぜ結びつうき、ここ北の果て小樽にたどり着いたのか? そしてやくざから立ち退きを迫られている「きし屋」の運命は?
昭和十六年、、若狭の堀口家では、当主文蔵の野辺送りが行われていた。うるし取りで一代の財産を築いたにもかかわらず、放蕩の血が、いつしか体内を蝕んでいたのである。そんなおりもおり残された妻りんのもとへ、二人の若者が訪ねてくる。文蔵が舞鶴の女に産ませた富吉と、弟の千太である。日陰の身であった下駄職人の富吉を憐み、りんは実母のような労りを見せる。富吉もりんの優しさに応え、下駄作りに励むのだったが、その心に
濡れ濡れべたべた この町の実在する小都市が雨にけぶる。近代とは、限りなく現代に近い過去。足元を水が流れる。調査によりますと、わが啄木研究会の温度は、全国平均より三十五%も高い。湿気の主な原因は、工藤一先生のよだれ、寝汗、つばき、たん。しかし、なんといっても最大の要因は雨。工藤一に雨が降る。石川啄木の本名も、一。はじめの一歩。啄木は七つになるまで、母方の工藤姓を名のった。しかし、こちらの工藤一、七つ
昭和もまだ穏やかななりし頃、東京は下町、老舗の飴菓子製造販売店「ささなみや」放蕩者の主人・久四郎は一向に店を顧みないばかりか、外では一体何をしていることやら。でも元気で働き者のお内儀・ちからによって何とか店は切り盛りされているようです。どんなことが起ころうと持ち前の負けん気の強さで吹き飛ばしていくちから。しかし時がたつにつれ、戦争に向かって世間の雲行きも怪しくなってきました。店は勿論、成長した子供