音の体験やフィールドワークを起点に、独自の音空間を構築してきた荒木優光。シアターピースやインスタレーション作品を発表するほか、記録にまつわる作業集団ARCHIVES PAY、音楽グループNEW MANUKEのメンバーとしても活動する。今回、新作のモチーフとして荒木が興味を持ったのが「カスタムオーディオカー」。理想のサウンドを追求し、音響システムとビジュアルに粋を尽くしたあのクルマたちだ。夕闇に染ま
2005年に神戸で発足し、知的障害のあるメンバーを含め、さまざまな世代のメンバーが共に創作・活動するアーティスト集団「音遊びの会」。月2回のワークショップを地元、神戸にて継続的に行うほか、日本各地やイギリスなどで積極的に公演を行い、障害のある・なしを超えた新たなコラボレーション、表現の形を示すアーティストグループとして注目を集めている。主に自由な即興音楽の分野に主軸を置きアンサンブルセッションを中
大航海時代、新旧両大陸を舞台にした「禁じられた恋」の壮大な物語『繻子の靴』は、詩人・外交官で、大正年間に日本にも駐在したポール・クローデル(1868-1955)が、1925年に東京で書き上げた集大成的な戯曲で、「四日間のスペイン芝居」と副題された、リヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指輪』四部作に匹敵する規模の「世界大演劇」です。新大陸のコンキスタドール(征服者)ドン・ロドリッグと、すでに人妻
ノイマルクト劇場+市原佐都子/Q
人間の生と性に関わる違和感を、大胆かつ緻密に描く市原佐都子。新世代の劇作家・演出家である彼女と、スイス・チューリヒのノイマルクト劇場の共同制作作品が豊岡に。西洋/男性からの視点で日本/女性を描いたプッチーニのオペラ『蝶々夫人』を原案に、その構造を反転させ、日本/女性からの視点で西洋/男性を描き、人種やジェンダーに対する先入観を痛烈に問い直す。
シェイクスピアの恋愛悲劇『ロミオとジュリエット』とプロコフィエフの音楽をもとにした、金森穣創作の劇的舞踊『ROMEO&JULIETS』。Noismの舞踊家に加えてSPAC-静岡県舞台芸術センターの俳優が出演。舞踊家達の雄弁な身体と旋律のように言葉を操る俳優の身体が、対峙しながらも重層的に鳴り響く。その先に現れるのは、舞踊でも演劇でもない「劇的舞踊」でしか描けない“ロミオとジュリエットたち”の物語。
「水の駅」などの”沈黙劇”で日本を代表する劇作家・演出家太田省吾の「砂の駅」を、韓国の演出家キム・アラが演出した日韓共同制作作品。ささやかな限りある生命を生き、人生の駅に出会い、別れ、また旅立っていく人々を一篇の詩に描く。出演は元転形劇場の品川徹、大杉連、鈴木理江子らと韓国国立劇団の名優たちが共演する豪華キャスト。太田を敬愛し親交の深かったアラが、豊かな彩りを持つ韓国の感性で太田作品に挑んだ。
"稽古場で、舞踊家たちがバーに捕まって稽古をしている。するとある刹那、一人の女性舞踊家が自らの指先に過ぎた日々の断片を見る。それは20年という歳月に彼女が乗り越えてきた苦悩であり、分かち合ってきた喜びであり、受け入れ、その身に刻んできた舞踊への愛である"(『Amomentof』)、”黄昏時に、白い舞台の上で、白装束の集団(ある民族)によって儀式が営まれている。それは人間とは何かを忘却せぬために、巡
「鏡の中の鏡」は私と佐和子のための作品です。1人の男と1人の女が互いの心の深淵を覗き込み、その普遍性に辿り着くことで再び出会う事るそれは互いの裡なるアニマとアニムス(ユング心理学における裡なる女性と男性)と出会うという事です。(金森穣)
本シリーズであえて“実験”の二文字を掲げるのは、この実験が作者である私自身にとっての実験であるからに他ならない。音楽や物語など、私にとっては外部の既存のものから得る刺激によって創作するのではなく、まずは空間及び動きの法則を仮定し、そこから何が生みだされるのかを創作過程において研究/記録すること。その科学的アプローチこそが本創作(実験)の趣旨である。(金森穣)
沈黙に満ちた静寂の中、一組の男女が踊っている。身体を伸縮させ、空間を変容させながら、沈黙の対話を続けている。沈黙に満ちた静寂の中、音楽が生まれる。空間を明滅させ、身体を変容させながら、沈黙を奏で始める。沈黙と沈黙の拮抗。その間に生まれる第3の沈黙。再び訪れた静寂の中、一組の男女が踊っている。そこにある静寂は、かつてのそれとは異なる沈黙に満ちている。(金森穣)
舞踊とは非言語表現である。だからこそ好きに発言(表現)できると思ったら大間違いである。社会的意味を持たない言語だからこそ、より観客の想像力に訴えかける言語(踊り)でなければならない。饒舌である必要はない。沈黙を恐れてはならない。人間(観客)には、聞こえない言葉を聞き取る能力があるのだから。(金森穣)
Noism設立15周年記念作品。「Fratres」とはA.ペルトの同名楽曲のタイトルであり、ラテン語で親族、兄弟、同士を意味している。他者との関わりが先鋭的に希薄になりつつある現代社会において、同士を求め、集団活動を標榜する舞踊団として、本作品を発表することは、創作及びその実演によって“その意味するところ”を“集団的に”見出すためである。その祈り、その儀式こそが本作品の主題である。
Noism0
『残影の庭―Traces Garden』は、武満徹作曲による現代雅楽の古典『秋庭歌一具』と、演奏する伶楽舎との協働。冒頭に三人が並んで動くシーンだけで、カウントではなく呼吸で動きを合わせる緊張に満ちている。指揮者のいない雅楽と、カウントで踊るバレエとの融合だ。井関が艶やかな羽衣で踊るが、死者と語る話が多い能の幽玄さも共存している。形ではなく、身体の有りようの中に和と洋が共存する、希有な作品である。
Noism0+Noism1+Noism2
『春の祭典』は白い病院着のようなものを着た男女。初演が2021年である以上、観客はコロナ禍を想起する。『春の祭典』は人知の及ばぬ自然にひれ伏す人間が、より弱い者を「生け贄」として選び出す話だが、金森はそこを超えて、さらに人々が共に厄災に立ち向かっていく姿まで描きだしている。
Noism0
2021年「境界」を共通テーマとした山田うんとのダブルビルで発表した金森穣作品。「近くて、遠い、此処」。果たして此処とは何処か。それが定まらない限り、何が近くて、何が遠いのかを理解することはできないが、現代情報社会では地球の裏側の出来事を“近い事”として理解し、目の前で繰り広げられる出来事を“遠い事”=自らに関係のない物事と捉えていることに対する金森自身の問題提起といえる作品。
Noism0+Noism1
新潟を拠点に世界へ向けて創作と発信を続ける2つの芸術集団による初の共演。作曲家・原田敬子の「鬼」をテーマにした楽曲に、金森穣が創作した“新潟をテーマにした作品”。鬼伝説の由来を金工師、鉱山の歴史との関係から考察する1冊の研究書から、鬼=鉱山=佐渡(新潟)がつながり、佐渡に初めて遊郭を開いたとされる清音尼、役行者、そして「鬼」という3つのキーワードに基づいて音楽的インスピレーションから創作。
Noism0+Noism1 ディアギレフ生誕150周年
「東西文化の融合」を20年来のテーマとしている金森穣が、オペラ『蝶々夫人』に影響を与えたともいえるピエール・ロティの小説『お菊さん』をもとに新たに台本を書き起こした上で振付。ストラヴィンスキーの「結婚」で踊る舞踊家たちは全員人形として描かれ、ロティが描写(蔑視)する日本人を隠喩している。Noism×鼓童「鬼」と同時上演され、本作品も「鬼」をテーマとしている。
森村による初のレクチャーパフォーマンスは、日本の戦後史および美術史、森村自身の個人史の3つが交錯する「わたし」の物語である。前半は、今回の撮り下ろしと過去のアーカイブから構成された映像と、舞台中央に置かれた椅子(森村のアトリエから持ち込まれた)の語りによって進む。椅子から発せられる音は、音声変換技術によって青年団の太田宏の声と混成された森村の声である。映像の中で、森村は度々変幻する。そして語りは、
アルゼンチン・ブエノスアイレスにおいて、したたかにかつ明確なコンセプトで作品を生み出し異彩を放つ振付家ルイス・ガレーが、2014年に続いて2 度目のKYOTO EXPERIMENT参加を果たす。前回は、「言語学的な身体」への考察から厳格な振付をほどこしたソロ作品『マネリエス』と、身体と物質を対等に扱って、無数のガラクタを舞台上に持ちこん だ『メンタルアクティヴィティ』の2 作品を上演し、いずれも異