舞踊公演
歴史的な文脈を踏まえつつ、斬新な切り口で歌舞伎作品を現代化してみせる木ノ下歌舞伎。本作『娘道成寺』は、2008年に『三番叟/娘道成寺』の二本立てで初演し、2012年に30分に短縮した長唄音源を用いて初上演。その後、2017年には長唄の録音音源をほぼ全曲使用した60分のフルヴァージョンとして再創作し、再演を重ねるたびに進化してきました。演出・振付・出演は、きたまり。長唄を基に、背景や心情から、演目そ
素戔嗚舞踏團結成公演。笠井叡はこの前年1974年7月に「天照大御神への鎮魂の舞ひ」、同年10月に「傳授の門〜現代における秘儀とは何か〜」を発表。「素戔嗚舞踏団九州公演のためのメッセージ」というテキストでは「いったい第二の天岩戸開きの真霊(まひ)がその建速素戔嗚尊御自身の舞でなくして何であろうか。」(『聖霊舞踏』)と書いている。
「ワタクシというものをすべての起点としてしか考えられないことから来る不幸と幸福。それらを大きな器の中に入れてシェイクしたらどんな味になるのだろうか。からだという器からズブズブと零れ落ちてしまう蜜を持ったものたちは、そこここに痕跡を残し身を隠すことができない。巧妙に足跡を消しても匂いがあたりにかすかに残る。そのような人々はあきらめて、ダンスを踊る他はない。互いの匂いが混じりあい、私の匂いがかき消され
チェロからオートハープまで自在に操る天空ミュージシャン坂本弘道を迎えて、リアルな妄想空間を爆走!
スフィアメックスでの『階(キザハシ)で踊る』から1年半ぶりの山田せつ子のソロダンス。ロンドン、ニューヨーク、サンクトペテルブルグ、ソウル、トロント、アヴィニョン、サンフランシスコ、世界が驚嘆した山田せつ子のソロダンス。ダンスはどのようにして生まれてくるのかー深い直観に貫かれたフォルムの変容は、見るものを踊りの発生の場に誘う。「ダンサーは見られることに耐えるための仕掛けをからだに持っている」なぜ踊る
山田せつ子が、公演表記を「舞踏」から「ダンス」と変えた分岐点になる作品。池袋西武スタジオ200の無機的空間が青銅色の壁面、錆の浮いた鉄や廃材、白砂を使った内藤久義のインスタレーションによって、地上の果て、異界へ通ずるステージとなった。荘村清志のギター「インターナショナル」に始まり、HIROKIのシンササイザー音が山田の緊張と放散の求心的なダンスと交差し、よりシンプルに生成された世界を展開した。
歌人、山中智恵子の作品「鳥首」からインスパイアされた作品で、古代の祭祀的な要素を含んでいる。ソロ中心の作品が多い中で、この作品には佐東みわこ、杉山景子が出演している。巨大な被り物を付けた山田が敢えて跛行的な歩行を続け、身体の在り方への新たな視点を模索しているのがわかる。土、水、紙などで空間を構成しつつ、身振り、行為と、踊ることの境界を越えるような振り付けが特徴的に現れている。
舞踊家だった父へのオマージュを謳ったソロ作品
東京日仏学院ホールにて初演。黒い衣装に包まれた山田せつ子が内省的な世界を動きに変換し続けていく。それに対し他の3人が神楽の稚児のように、緩やかなムーブメントを繰り返す。韓国の批評家・金泰源は「山田せつ子をはじめて見たときの衝撃は忘れられない。透明な意志と技巧の精密さは表現的ソロダンスの理想」と評した。現実を意識的に抽象化していくこの作品は、山田せつ子独自のダンスムーブメント、メソッドを明確にした。
真綿が張られた1本の大きな枝が右手首に括られ、肩に背負われている。あたかも巨大な羽のように見える。傾いた首はゆっくりと傾き続け、静かにゆらゆらと動く。微細な振動だけが踊ることを形成していく。踊ることの衝動に真っ直ぐに向かいあったこの作品を観たニューヨーク・ヴィレッジ・ヴォイスの批評家デボラ・ジョーイットは「舞踏のジャンヌ・ダルク」と評した。山田せつ子のダンスの原点ともなる作品。
山田せつ子と神領國資のデユオ作品。丸太で組まれた櫓と堆積された泥土、置かれた石は古代の祭儀の場所のように見える。動物を模するかのような神領國資の舞踏が生贄のような山田せつ子の舞踏と交差する。笠井叡が主宰する天使館出身の二人のこの作品は、天使館が踊ることと神秘主義を結びつけた要素が深く刻まれた作品とも言える。東京公演の後、フランス、シャトーヴァロン・ダンスフェステイバルに招聘されている。