太田省吾と劇団転形劇場による、完全な沈黙のまま極端に遅いテンポで俳優が演じる表現を追求した沈黙劇/〈駅〉シリーズの第3作。13のシーンからなり、古来のエレメント(水・地・砂などの物質)を大胆に上演空間に引き入れる着想のもとで、約50トンの砂で舞台を満たしている。点々と廃品の埋まった吹きさらしの砂場に、さまざまな人々が姿を現わし、気流のように軽やかな遊戯を演じ、死者との交渉を繰り広げていく。
太田省吾と劇団転形劇場が、能舞台を想定した創作を通して、「遅いテンポ」と「沈黙」を表現の中心に据える独特の方法を導き出した作品。登場人物は「老婆」「少尉」「隣家の父」「その娘」「その息子」など18人。老婆がひとり風に身をまかせるようにして現われる。人々の行列が舞台に運び込む家財道具を囲まれて、老婆はゆめとうつつ、死と生との間をたゆたい、やがて、ひとり風のありかを訪ねるように去っていく。1977年、
音楽形式(=フーガ)と精神病理の言葉への着目を特徴とする、太田省吾による〈フーガ〉シリーズの第2作(後に『プラスチック・ローズ』と改題)。舞台は精神病院の病棟であり、棚状の寝台が設えられている。登場人物は17人(男1~7、女1~10)。靴泥棒について話し合う二人の女(女1、女2)、生活の一々を執拗に記録しようとする男(男1)など、さまざまな人物の対話がなだらかに変奏し、間人格的な齟齬が立ち現われる
太田省吾と劇団転形劇場による、完全な沈黙のまま極端に遅いテンポで俳優が演じる表現を追求した沈黙劇/〈駅〉シリーズの第2作。舞台には、生活をとりまくさまざまな廃品の堆積した山が形づくられている(高さ5メートル、裾野20メートルほど)。登場人物たちは、幾重にも曲がりくねり頂上へとつづく一本の山道を登り、あるいはそこで休息し、山の向こうへ立ち去る。13のシーンが連鎖し、出会いと別れ、生と死、過去と現在を
太田省吾が、初期作品以来の「老い」の主題を敷衍して手がけた作品。登場人物は「老人1」「老人2」「少女」「母」など17人。中心人物の一人(老人2)が、母音でしか発話することができないという設定をもつ。ドラマは、二人の老人(老人1、老人2)による性的な記憶と幻想をめぐって展開する。一種の失語状態に陥った二人の声が、ワルツに搔き消されるところで幕切れをむかえる。
太田省吾と劇団転形劇場による、完全な沈黙のまま極端に遅いテンポで俳優が演じる表現を追求した沈黙劇/〈駅〉シリーズの第1作。円環的な構造をもつ9つのシーンからなる。把手の壊れた水道の蛇口から一筋の水が細く流れつづけている。少女、二人の男、夫婦、老婆など、さまざまな人々が、水場を通りがかり、水に触れ、水を飲み、遠くを見つめ、やがてどこへともなく去っていく。太田と劇団にとって画期をなす作品であり、世界各
太田省吾が「引用」を表現上のテーマとして手がけた〈ヤジルシ〉シリーズの第1作。さまざまな種類の著作の断片などを活かし、演劇における引用の意識化・方法化を探求している。11のシーンからなり、登場人物は20人(男1~8、女1~12)。一組の男女(男1、女1)が、部屋の天井にシミのような矢印を見つけ、矢印に誘い出されるように行動を起こす。二人は数々の奇怪な光景を巡行した後、元の場所に立ち戻り、互いの存在
今作は、サミュエル・ベケットの戯曲「ロッカバイ」に触発され創作した。 「ロッカバイ」は、家の中で死と向かい合う老女の孤絶を描いていたが、今作は、公園にいる家を失った一人の女にフォーカスした。帰る家を失った女が、かつて住んでいた幻影の家に戻っていく思いにとらわれている。 コロナ禍で仕事や家を失い、公共の場でさらに孤独を深める人たち、その老い、死など現代社会の課題を鮮明に浮彫にする。さらに、今もなお世
電話や鍋など、さまざまな日用品=遺品を土で固められた舞台(能舞台を模している)に置き、語りはじめる五人の女優たち。彼女らは、イェリネクのテキストを舞台上で「伝達」しようとしているのだが、その試みは互いの突っ込みや言葉の奪い合いにより、うまく運ばない。「上演は失敗する」という印象的なフレーズと、不自由そうに発せられる「ペンも紙も失ったので、言葉を記録し、それを誰かに伝えるためには、ただこうして、頭で