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1970年春学期、カリフォルニア州立大学フラトン校で教えていた邦正美の尽力により、同校に舞踊学科が新設された。本作は、舞踊学科としての初公演で発表された邦の新作。空間の変化が主題となっており、「空・動・至福・苦悩・瞑想・環境・休止・空」という8場面構成、66分の作品である。映像はおそらくドレスリハーサルの一部で、「動・至福・苦悩・瞑想」を収録している。元々は5月7日~10日に上演予定だったが、学生
自由を求める魂の音楽、黒人霊歌(ゴスペル・ソング)と共に、重圧下の人間の叫び、祈りを描いた作品。1968年初演。差別の只中に身を置いて、"そこから"一歩前進する覚悟を持つアメリカの黒人達への連帯、彼等の音楽に感じた心のふるえから作品が創り出された。まだアフタービートにのることに馴染みのない時代で、音楽に誘われてスタジオにふらっと入ってきた一人の黒人音楽家の腰を実際に触らせてもらい、踊り手達はその歩
折田克子がギリシアメテオラの真っ赤な月を見た際にインスピレーションを受け、創作したソロ作品。針で突き刺すとプシュットはじけそうな真っ赤な月。月の光を通し陰と陽、妖精性から妖艶さ、多様な女性像、宇宙観、生死感、無、等、様々な要素を凝縮させた舞踊作品。作者独自のボディテクニック、間、呼吸等、時に音楽を奏でるような間合い、音楽性は、石井獏そして石井みどりのリトミックの技法が基にあり、折田克子の独自の世界
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苦悩し、自由への脱出を決行する女の行動をテーマに、その心情を踊り上げる芙二三枝子のソロ作品。1962年初演。テーマは駈込み寺である鎌倉の東慶寺にちなむ。遠藤琢朗のテキストを鶴澤燕三の作曲で現人間国宝の竹本住太夫(当時は竹本文字大夫)が語り、「古井戸、道、ひでり、雨、風、雪」という場面展開を踊った。本映像は1968年3月の芙二三枝子創作舞踊公演で上演された時のもの。
9つの群舞作品で構成されている。「カテゴリー」と題された5つの場面は空間形成による抽象的な運動で表現し、他の4つは具象的なサブタイトル(愛情配置、特売場、平和利用、告別式)の題材から作品を構成している。1960年前後の社会不安が作品のモティフになり、平和への願望が強く表現されている。無音の8mm映像とオープンリールの音声が別々に残されている。
(フライヤーより)3つのダンスで奏でるグリム幻想曲(ファンタジア)'85年と'86年は、グリム兄弟が生誕してからちょうど200年目。兄弟の「グリム童話(メルヘン)」は、今や子供から大人まで広く親しまれ、国を越えて世界中に愛されています。夢・ロマン・笑い・残酷・皮肉・愛・エロティシズム……。グリム・メルヘンは人間そのものの息吹と言えます。ところで、今回の「グリムふぁんたじあ」は、このグリム・メルヘン
「FLAMENCO GALA TOKYO 2022」は、1927年竣工の歴史的建造物であるスパニッシュ様式の洋館・小笠原伯爵邸を舞台に開催されたフラメンコ公演イベント。日本フラメンコ協会が、コロナ禍の文化支援事業「AFF2!(Arts for the Future 2)」を活用して主催した。来場者は邸宅内を巡りながら、パティオでの群舞やラウンジでの演奏、ダイニングをタブラオに見立てたステージを体験
ダンスオーラルヒストリー
古い舞踊記録映像を見ながら、直接の関係者が体験を語るダンスオーラルヒストリー。本編の語り手である馬場ひかりは、幼少期から芙二三枝子に師事し、芙二三枝子舞踊団の海外ツアーにも参加、ニューヨークでの活動後、帰国してからは歌劇の振付等も手掛ける。2001年には芙二の代表作のひとつであるソロ作品「駈込」を芙二自身から振り移された。
プロジェクト大山と田上パルによるダンスと演劇のコラボレーション。1940年に上演された『日本』三部曲に想を得て制作された作品です。1940年は、アジア初となる東京オリンピックの開催が計画された年です。しかし日中戦争の長期化によりやむなく中止されます。その一方で、この年には皇紀2600年を祝う様々な記念行事が催されていきます。第一線の舞踊家達が賑々しく集う『日本』三部曲もそのひとつ。平和の祭典が中止
すべてのものに光を注ぎ、輝かせ、西空の雲を金色に染めて沈んでいく太陽に、若人は呼びかける。1968年初演。「芸術の先生は自然だ」と父から教わった芙二三枝子は元々「太陽」が好きだったが、人間界の煩わしさから宇宙にテーマを求めた60年代に改めて「太陽」というテーマに目覚め、66年には大作「太陽風」を発表している。また68年は“踊りはすべての人のもの”という考えを核に門下生やその教え子の子供達との合同公
真の平和への願望に〈自転〉の着想があり、人間の生命力を尊く、愛おしいと思う心で創作された。男でも女でもない、ニュートラルなものとしての<人間>の群れ。危機にのぞんだとき、不死鳥のように底力を出して生きる人間。前進、安らぎ、喜怒哀楽、危機、痛みを経て、また前進するという場面を通じて人間の群れにひそむ尊い力をみつめ、自転する人間の姿を踊る。1967年11月初演。
80年代から作りためた小品をゴツゴツと並べたものを「ダンス☆ショー」と呼んできた。懐かしきリーダース・ダイジェストの通販で購入されたレコードを発見したことからまずは始まる。昭和の音楽が明るく単純な編曲で嬉々と演奏されていた。わたしは捻って捻り過ぎる癖があるので単純で明るい疑いのなさに圧倒される。単純で一本槍なダンス。凝らずにお遊戯のような動きで組み立てた小品の粒。初演新たな小品も織り混ぜてゴツゴツ
1986年スパイラル ESPACE AVENTURE『ダンスの季節の女たち』第2夜:黒沢美香公演で上演した(初演 1985年 俳優座)ラジオの国民的体操をモチーフとした作品。ーーースパイラル ESPACE AVENTURE『ダンスの季節の女たち』について スパイラルホールは劇場であり、ギャラリーであり、倉庫でもあり・・・つまり、どんな風にも使える空間です。 スパイラルでは、舞踊によってこの空間へ挑
文明のパレードであり、物質のパレードである。野外劇場で初演され、日本の「舞台芸術の新しい領域を開いた」と評される作品。台詞を全く用いず、従来の演劇、舞踊といった枠組みを越えて新たな劇表現を獲得したこの作品は、パパ・タラフマラの大きな転換点となった。人の生み出した物が、むしろ人を動かして先へ先へと進んでいく。そのような文明のエネルギーを視覚化し、生命と物のパレードとして描く。ロケットを想起さ せる7
邦正美は1964年にカリフォルニア州立大学フラトン校の演劇学科准教授に就任、後に舞踊学科を創設し、学科長を務めた。邦の舞踊教育は全人的成長を促すことを主眼とし、学生達が「踊りの道具」となることなく、踊りを通して創造性を育むことを旨としていた。「カルミナ・ブラーナ」は1966年11月に邦が4場面を振付けたものの再演。「Eternal Now」は「カルミナ・ブラーナ」と共に66年11月に上演された作品
海と横丁の物語故郷の、海辺の町を舞台に、様々な人間模様や風景が描かれる。小池が故郷をモチーフに制作。日本という風土を強く意識させる。世界中の一流劇場で公演し続けてきた作品。演出家小池博史の原風景である、60年代の海辺の町をモチーフとした作品。 「船」とはその町と外の世界を結ぶもの、外の世界への出口でもある。ノスタル ジーに満ちた海辺の町の光景を詩情を湛えて描きつつ、人間の内にある素朴 で満たされな
弁天島海上野外劇場
白虎社の主宰である大須賀勇が芸術総監督を務めた「クマノ・スパーク(熊野国際アートフェスティバル)」の公演記録。セネガルからパーカッションのドゥドゥ・ニジャエ・ローズ、インド舞踊のシャクティ、モダン・ダンスの川上邦子舞踊研究所、女性だけの和太鼓グループ炎太鼓などが出演し、古代からの豊かな文化がある独特の地形を持つ熊野が国際的なアート発信の場になるとの大須賀の構想を実現。大須賀の総合演出による当該フェ
ダンスオーラルヒストリー
古い舞踊記録映像を見ながら、直接の関係者が体験を語るダンスオーラルヒストリー。本作では、1951年から邦正美に師事し、1959年に独立して札幌市に舞踊研究所を開設、その後、94歳の今(2026年1月)に至るまで現役の創作舞踊家として作品を発表し続けている能藤玲子が、邦の代表作「黄色い時間」について語る。邦が指導した「舞踊身体育成法」の内容や、作品創作に関わる邦の姿勢など、直接指導を受けた者ならでは
舞踏家・大野一雄が100歳を迎えた2006年10月から1年間は「大野一雄 100歳の年」として展覧会や公演など世界各国で様々な100歳を祝うイベントが開催された。中でもガラ公演「百花繚乱」にはピナ・バウシュの映像出演を含め国内外から実に23組の踊り手が集結、2日間にわたり密度の濃い舞台が繰り広げられた。両日ともカーテンコールには大野慶人の押す車椅子で大野一雄が登場した。以下は、第二夜の出演者とその
1936年から1945年までをドイツで過ごし、マリー・ヴィグマン、ルドルフ・フォン・ラバンに師事した邦正美が、語りと実演とでモダンダンスとはなにか歴史的に俯瞰する形でわかりやすく紐解く。邦舞踊研究所の所員による実演は原始時代の踊りから世界のモダンダンサー達の踊りまでを含み、邦がドイツで学び日本で完成させた舞踊のための身体作りの基礎「舞踊身体育成法」や、代表作「黄色い時間」から<最後のカテゴリー>と
ダンスオーラルヒストリー
古い舞踊記録映像を見ながら、直接の関係者が体験を語るダンスオーラルヒストリー。本作の語り手は、1950年より安藤三子(後の哲子)に師事し、後に大阪芸術大学舞台芸術学科等で指導にあたるなど、後進の育成にも力を入れてきた小西達子(旧姓・湯浅)。安藤三子舞踊団にはモダンダンサーだった土方巽も所属し、小西と共に黎明期のテレビ番組で踊った。当時の番組映像が残ることは稀だが、幸いにも発見された「陽気な帽子屋」