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王さまが好きなものはタマゴ、嫌いなものはタマゴのほか全部。朝から晩まで時間にしばられて窮屈な毎日。王さまは自由になりたくて逃げだすのですが、博士の発明した「王さま発見機」で何処に隠れても見つけられてしまう。そこに魔法使いのチョモチョモが現れて王さまを眠らせてしまう。王さまが目を覚まさないので大臣と博士は強力な注射をすると…。魔法と注射がぶつかって、なんと王さまが二人に!一人は透明人間の王さま、もう
保育園に勤める30歳の健人は、男性保育士に対する保護者の偏見に落ち込み、ゲイである秘密を打ち明けられず引きこもってしまった。ある日、鏡を見ていると、1人の少女が現れて、言った『世界を救って欲しい』少女に導かれて1997年の教室へ そこで10歳の ぼくと出会い…
『池上show劇場【DELUXE】』Aプログラム
山の手事情社の作劇方法《山の手メソッド》を用いて俳優たちが作った数々のシーンから、厳選したものを寄席形式にまとめました。具体的には、ちょっとシュールな寸劇《ショート・ストーリーズ》、自分自身に降りかかった出来事を感情豊かに語り合う《漫才》、身近にいる印象的な人やモノをヒントにキャラクター化した《ものまね》。それらを飽きないように構成し、老若男女に楽しんでいただけるように仕上げました。
舞踏の誕生に深く関わった3人の舞踏家——土方巽、大野一雄、大野慶人の代表作を現代のダンサーが完全コピーする。踊り手の川村美紀子、川口隆夫、松岡大は、舞踏の精神を現代の手法で鋭く反応する、当代きっての3人。川村が土方巽の『疱瘡譚』、川口が大野一雄の『ラ・アルヘンチーナ頌』、松岡が大野慶人の『土方三章』を厳密に再現した。アーカイブ映像の慎重な分析と真摯な稽古によって、舞踏をいま・ここに引き継ぐ試みであ
ハードコアコンテンポラリーダンスカンパニー大橋可也&ダンサーズと気鋭のオルタナティブロックバンド空間現代によるコラボレーション作品第二弾。ささやきをテーマに、ライブ演奏と激しいダンスを融合させた作品。抑圧されたささやきを秘めた身体が時に暴発し、ぶつかりあうさまを描く。
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韓国戯曲を日本で広く紹介することを目的に、第一弾として、現在韓国で人気の作家、オセヒョクの作品を一気に3作品上演。戦地で捕虜となり、死刑を待つ戦士たちが最後を笑って過ごそうと自分自身と葛藤する。
本作は、芥川龍之介の短編小説「桃太郎」(1924年発表)を基に、伝統舞踊の視点からこの物語を舞台空間作品として再解釈する試みです。鬼たちが持っていた架空の伝統舞踊を創作し、舞踊の継承と断絶を可視化することで、文化や身体表現の在り方を問いかけます。
NHK編「戦争を知っていますかー語り継ぐ女たちの体験」を乾氏が構成。第一話「満州からの最終列車は燃えた」 第二話「艦砲の嵐をくぐりぬけて」 第三話「母さん、水をちょうだい」 第四話「ムッちゃんはどこへいったの」
1942年、アメリカ。ルーズベルト大統領の行政命令により、十一万人の日系人が強制収用所送りとなった。収容所の数は国内に十か所。前年の真珠湾攻撃により太平洋戦争がはじまり、アメリカは日系人の隔離政策を行ったのだ。 自国民を日系であるという理由だけで市民権を剥奪し、収容所に閉じこめ監視する。合衆国憲法違反である。 さて、舞台はカリフォルニア州の砂漠地帯マンザナ。バラックの強制収容所の一室。 朗読劇上演
「ダンスの持つ抗えない魅力を、ダンサー自身が取り戻す事」を第一のテーマに、踊り尽くした末の、意味や記号から解き放たれた体から初めて生まれる関係性を提示した作品。「欲望も抑圧も、産まれた時からお皿に並べられていて、好きも嫌いもないままについ手が伸びちゃう程には食っちゃ寝て、その分大きくなったら誰かに食べられて、どんどこシェアされて循環してるこの体の緑。かなり。」
西ドイツのインダストリアル・ノイズ音楽バンド、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのライブを描いた映画『半分人間』(1986年公開、石井聰亙監督)のために撮影された映像。大須賀の手元に保管されていたのは16mmポジで、本編では使われていない。撮影は渋谷の雑居ビルから始まり、この映像の舞台となった荒川のそばの屠殺場の匂いのする場所で夜を徹して行われた。舞踏手は金粉を塗っているが、普段白塗りでする動
作品ノート:古くから日本には“般若心経”という仏教経典に より、あらゆる存在が“空(くう)”であるとされ る考え方がある。“空”は、現代では「そら」や 「からっぽ」、お腹が「すいた」などという意味で 使われる。経典の一節には、万事は生まれもせ ねば死にもせず、眼に見える景色、聴こえてくる 音、伝わる匂いや味わい、触れたり感じること、 増減やそんなものは一切「無い」という。存在に は流動的な変化があ
あれから10年ー。生物学研究室はどうなっているのか?『カガクするココロ』の続編として書かれ`92年に初演。`96年にカガクシリーズ2本立ツアー中に、こまばアゴラ劇場で収録。当時30代の平田オリザが描く、人類の急速な進歩と緩慢な進化の流れの二重奏。
善意を描くことを避けてきたKERAが、初めて"善人のみ"を登場人物に、これまでにも増して繊細に描き出したデストピア・スケッチ。クリスマスの夜、パーティーの計画を練る兄弟。しかし、楽しい一夜になるはずが、ちょっとした誤算からその計画はもろく崩れ去ってしまう。弟が想いを寄せる女、謎のヤミ医者、兄弟の部屋を間借りしたいと言う女、ガスの点検に来たと言う男。兄弟の家に集まった彼らの抱えていた「秘密」が彼らの
内田百間の同名小説より、予言する神話的存在、件(頭人牛体)をカセキが体現する。生まれて3日で死ぬ運命、人間だった時の記憶と感情を反芻し、予言を求める人間達に追われ、囲まれ、待たれる。空気は期待と切望に濃厚になり、いつか観客を窒息させる。恐怖の構造、人間の欲望、愚かさを簡潔な動きと演出で、時にグロテスク、時に滑稽に表現する。誰が次の件になるのか。恐怖は体を揺さぶり突き抜ける。1998年初演。
コンビニの帰り道、坂道を転がってくる大きな丸い月に会った。今夜は満月だった。「満月だったんですね。今夜。だからこんなに明るいんですね、」男は満月に話しかけてみた。満月は何も言わない。月は無口な方がいいと思う。何も言わない月に向かって、男は語り続ける。この道をまっすぐ行かないでほしい、その理由を。月は黙って聞いている。聞いているのかどうかわからないけれど、聞いているような気がする。男は語り続ける。や
あたしは人の話を聞かない。あたしはあまり謝らない。あたしはたびたび遅刻をする。あたしは秘密を守らない。あたしは、あたしの話しかしない。あたしの癖に。二年前と、何も変わらない。柳瀬真由が夢見るとても幸せな日常と、それとはかけ離れた毎日を、スクランブルさせつつも真正面から捻くれて描く。
(フライヤーより)歌のお姉さん、体操のお兄さんによる楽しいつどいや、「ロバの音楽座」によるショーなどが3階青山円形劇場に大集合!!
日中戦争たけなわな昭和14年。京都の路地裏に住むウメコは、アホやしょんべんたれやといじめられ十日も家から出てこない。今日もふかしたてのお芋を悪ガキデベソに取り上げられて泣いている。そこの現れたのが現人神(天皇陛下)とも知り合いという自称ウメコ婆さん。一人ぼっちのウメコとしわくちゃウメコは、なぜか一緒にくらしはじめた。
南極探検から白瀬矗が日本に帰ってきた。大喜びで出迎える娘の武子。しかし探検隊に莫大な借金が判明。「講演会を開き募金を集める。武子にも手伝って欲しい」と矗。妻のやすは猛反対するが、武子は承諾。3年後、満州の講演会で、日本に反対する暴漢に襲われる。その時助けてくれた若者と恋に落ち、武子は満州に嫁ぐ事に。 遠く離れても互いの幸せを願っていたが、時代はささやかな幸せも許さない。けれど再び家族を結び付ける、
相原志保が、短大時代に出会った友人・澤田まゆといつもの喫茶店でお茶をしている。今朝見た夢についてお話をしていると、見知らぬ人が会話に参加してきた!……のであるが、それはどうやら澤田まゆの高校時代の友人・上村岬で、相原志保とは以前にも会ったことがあるという。最初の出会いは去年の冬、、、冬?「あれ?そもそも今年の冬……あった?」「冬のことをまったく思い出せなくなってしまった」という症状が出始めた世界の
能楽堂という「宇宙」。無限=夢幻の時空間で〈音の河〉に洗われる心と身体。初期作品から遺作〈エア〉まで、ショート・ピースのなかから、この場と身体を意識したプログラムと演奏形態、ベストの出演陣でおくるレクイエム。邦楽器、映画音楽、シアター・ピース、ミュージック・コンクレート、ピクチュア・スコア、書かれた言葉を折り込み、武満徹とともに漕ぎだす時間(とき)の遊泳。
優柔不断で頼りにならない映画監督、人の迷惑かえりみない完全主義者の女性キャメラマン、険悪な仲の二人の主演女優、そして文句の多いエキストラ…、助監督は切れかかり、制作助手は孤軍奮闘…。映画撮影現場の出口が見えない、笑いと涙の人間模様。
江戸音楽の巨匠たち~その人生と名曲
今日の私たちに伝えられてきている「江戸音楽」を、その時代にあって創り、育んだ巨匠たちに焦点を当てたシリーズ。第9回は日本一のメロディーライター 作曲の秘密に迫る 三世杵屋正次郎対談 竹内道敬、徳丸吉彦「元禄風花見踊」 唄 東音本多貞子、東音大森多津子、東音青島静子、東音小林百合、東音小山孝恵 三味線 東音大塚睦子、東音岩田喜美子、東音新井康子、東音植松美名、東音佐々泰子「正次郎連獅子」
(フライヤーより)「なよたけのかぐや姫」竹から生まれたかぐや姫が、月へ帰っていくまでの物語をミュージカルでおとどけします。素劇「とんとむかし」越後の国の民謡をもとにしたお話を、笛や太鼓などの生演奏に合わせて「素劇」という形で体で表現します。
世界中の老若男女が楽しめるステージアート作品。アンデルセンの名作童話を原作に、双子の人魚と半魚人の姉妹を主人公にした物語。フランスの照明家とコラボレーションし、「テアトルノアール」という特殊な照明演出法を用いて、深い海の世界や思いやりの心や無償の愛など繊細な心情を描く。
日本舞踊の人気演目のひとつ。狂言師の右近と左近が手獅子を持ち登場し、獅子のわが子を谷底に落とし、這い上がってきた強い子だけを育てるという伝説を厳かに舞う。大薩摩によって清涼山の様子が語られた後、勇壮な親子の獅子の精が現れ、豪快な毛振りを見せる。今回は衣裳付、間狂言に代わり素演奏でお届けします。
東京オリンピックの年、 沖縄に風疹が猛威をふるった。その時の妊婦から生まれた子供の多くが、聴力に障害を持っていた。その子供達の為につくられた一過性の「ろう学校高等部」で彼らは野球部を作った。打球音も聞こえず、会話も困難で危険性のある中、手話をコミュニケーションとして、甲子園出場の夢の為に特訓を続けていた。そんな彼らの希望を阻むように高野連の規則 「高校野球憲章第三章」の厚い壁が。彼らの甲子園の夢は
いつも通りの慌ただしいランチタイム。ある契約社員の男は魚を飲み込むと、喉に骨が刺さる。でもそんなことには構ってられない。日々の雑務で忙しいのだ。ところがどんどん骨は成長する。喉を突き破り、肉がつき始める。ほとんど魚人間になった男に、同僚が気づく。たぶん、あなた新人類よ。進化して初めての人間となった男の孤独を目の当たりにした部下は、その姿に昭和の父親の面影を見た!
森に仲の良い「のねずみ」の家族が住んでいました。おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさんと10ぴきの兄弟たち、合わせて14ひきの大家族。そんな「のねずみ」の住んでいる森へ、とうとう開発の手が伸びてきました。しかたなく、追われるように森の奥へと新たな住み家を探し求め、移動していく野ねずみたち。がけを登り、坂を下り、川を渡って、滝のところでひとやすみ。シダやクマザサをくぐって進んでいると物音
新型コロナウイルスの収束後も、次々と新たな感染症が蔓延する現在。最新型の病原体「ネクロウイルス」の感染拡大により、政府は再び特殊衛生班を編成し、発症者の駆除を行っている。一方、新宿五丁目のデリヘル「わくわくパラディーソ」では、今日もデリヘル嬢、店長、ドライバーが待機場所でくだらない話に花を咲かせていた。とりとめのない日常と、すぐそばの歪な現実の物語。
super reflection
映像作品『super reflection [ver.0.1]』のメイキング映像
物語は1991年夏。50年前の真珠湾攻撃に参戦した3人の若者たちも、今や75歳。自分たちが攻撃したパールハーバーを見ようと、それぞれが胸に深い傷を抱えながら再びハワイへ旅立った。そして碧い空のハワイで、不時着した九七式三号艦上攻撃機が、ある牧場主によって隠されていたことを知るのだが……。
世田谷パブリックシアター+KERA・MAP
1936年(昭和11年)の秋。日本のどこか。東京から遠く離れた、ちいさな島のちいさな港町。この町にたったひとつだけある、ちいさな映画館「梟島キネマ」。この映画館の常連客である森ロハルコは、時間があれば客席に座り、繰り返し上映される同じ映画を観ている。洋食店に勤め、失業中の夫の生活の面倒もみているハルコにとって映画だけが唯一の楽しみ、映画を観ているときだけは夢を見ることができた。今日もまた、ハルコは
1985年8月に起きた日本航空機の墜落事故を特異な発想と批判的な笑いで描きながら、深い鎮魂の思いを込めた作品。初演は1986年。家族が夢中になって見入るテレビから、インタビューから逃れて事故の生存者であるCAが飛び出してくる場面を皮切りに、日航がコマーシャル界に復帰する撮影現場など、虚実の間をぬう奇想なドラマが展開。やがて現代の表層的な戯画である茶の間の光景が、事故で失われた人々のかけがえのない生
神を求める様は古今東西、さまざまな喩えが用いられてきた。その中で、“女性に恋焦がれ一体となる”というメタファーはスーフィーの詩人からトルヴァドゥール(吟遊詩人)に至るまで、広く用いられてきたモチーフ。ラヴェルの組曲「鏡」を主題とし、現実と幻影が交差するコンテンポラリーな手法の中に、古典的な象徴を散りばめ、先端のメディア・アートを駆使した空間に光、映像、音楽がダンサーの身体に反射させる。
三谷幸喜の書き下ろし作品。小説「ジキル博士とハイド氏」をベースにしたコメディ。19世紀末のロンドンを舞台に片岡愛之助、今作が初舞台となった優香、藤井隆らが出演。二重人格をテーマに据えたロバート・ルイス・スティーヴンソン著作の怪奇小説「ジキル博士とハイド氏」に着想を得た、シチュエーションコメディ。「ただ面白いだけの、笑った後に何も残らない喜劇を創りたい」と三谷が語るように、彼自身が感じる普遍的な笑い
(フライヤーより)日韓の劇場間ネットワークとして2003年スタート東京・青山円形劇場とソウル・シアターゼロとが共同で若手アーティストの作品上演の機会アーティストコミュニケーションの場として企画・制作参加アーティストは連続してソウルと東京で作品を上演している
若き山伏「大鷲坊」は、幾多の思い出を秘めた故郷「櫛引通野平村」、薬師神社の別当に任じられ出立する。 村に着いた彼を待っていたのは、ニセ山伏の色男「月心坊」だった。どちらを村の別当にするか、村人達は法力比べで決めることにする。それは、心を病み歩けなくなった娘おきくの治療であった。大鷲坊はおきくを背負い、野にでる。村では…女手ひとつで懸命に娘のたみえを育てている幼なじみのおとし、村人の疑心暗鬼と偏見に
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近松門左衛門の浄瑠璃の抜粋の他に、ルイ・マル、フランソワーズ・トリュフォーのシナリオ、稽古場で即興を重ねて創作した場面などで構成された様々な「女と男」の物語。
メタファーとしての王の最期を描く。専制的な帝王が没落の道を辿る。将軍は背き、愛妾は逃げ、王は捕えられ処刑が言い渡される。王を捕えた者が次の王になる。それは昨日までの王の道化であった。死の直前の王。この人生の皮肉は「一場の夢」だ。青春の終焉、定年、或いは肉体の衰え、栄枯盛衰、大自然の四季の移ろいなどのメタファーとして描かれる。次の王が昨日までの道化なら、今までの王もかつては道化であった、という苦さ。
世界的バレエダンサー首藤康之、不思議空間の創造者小野寺修二、アコーディオンのイメージを革新し、音楽シーンをリードし続けるcoba。時代を駆け抜ける才能のコラボレーションがベニサン・ピットという180席の緊密な空間で実現。抜群のセンスとユーモア、話題性に溢れた極上のエンターテインメント。
大野一雄フェスティバル2010参加作品。1977年に初演された大野一雄の代表作「ラ・アルヘンチーナ頌」を、森村泰昌を始めとしたジャンルを超えたアーティスト達が、各シーンをそれぞれのアプローチで踊り継ぎ、現在の出来事として現前させる。
グラフィックデザイナー・舞台美術家・エッセイスト・小説家である、妹尾河童の少年期を描いた自伝的長編小説、1997年のベストセラー、『少年H』を舞台化。好奇心と正義感が人一倍旺盛な妹尾肇こと「少年H」と、ちょっと変わったその家族が巻き起こす愛と笑いと勇気の物語。太平洋戦争の開戦前夜から終戦後までの暗くなりがちな時代を、“H”を取り巻く個性あふれる人々が、ときには笑い、ときには涙しながら、明るく逞しく
『リセット』の3つのコンセプト-〈登場人物をリセットする〉この芝居には過去の作品に登場した人物がキャラクターもそのままに、続編のように再登場します。例えば『ONとOFFのセレナーデ』の葬儀屋のヤリタイと看護婦の深町、『眠れる森の死体』の外科医の猪瀬・境など。つまり、過去の作品の登場人物たちがこの『リセット』という作品にリセットされるわけです。〈観客がリセットする〉この作品では時間的つながり、登場人
きのう落とし忘れたPCがまぶたを刺す。肩はぼんやりとしたひかりに囲まれて、ようやく輪郭線を生んでいる。部屋にのこるけんかの痕跡が、いよいよ目の前にあらわれる。日はのぼるらしい。俺はあるはずのない水平線を、窓に感じている。それを眺めるほか、できることはあるのだろうか?第13回せんがわ劇場演劇コンクール参加・オーディエンス賞受賞作品。恋人と別れた人の部屋に、深夜友人が訪ねてくる。
時は封建時代。「白鷲城」の異名をもつ美しき姫路城の天守第五重。ここは、人間が足を踏み入れれば決して生きて帰れぬ、魔界の者たちの棲み家。ここに棲む天守夫人富姫のもとへ、猪苗代より生首を手土産に亀ヶ城の亀姫が朱の盤坊ら眷族をひきつれて訪れる。富姫はその返礼に姫路城城主・播磨守ご自慢の純白の鷹をおびきよせ亀姫に持たせた。鷹をそらした責を問われた図書之助は切腹のかわりに唯一人第五重にむかう。二度と踏みいれ
「ゴドーを待ちながら」をモチーフに描く、世界劇団版不条理演劇!不条理演劇の頂点、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』をモチーフに描く、世界劇団版ベケット!そこには二人の浮浪者が佇んでいた。彼らが言葉を交わすうち、時代が歪んでいく。“これが夢か現実か、今が朝か夜かも分からない____。”
「私は他人である」 その妄想をきっかけに、高校時代の同級生三人が再開するフリーライターの立原雅人、精神科医の紅谷礼子、そしてゲイ・バーに勤める後藤参三。作家志望の雅人は、時々自分が自分でないような錯覚にとらわれ、礼子の勤める病院を訪れる。そんな折、偶然雅人と再会した参三は、雅人の看護をすることになり、3人は高校卒業以来、初めて顔を揃えることになった。「孤独な愛の行方」をめぐる物語。
これはももちの世界の新作舞台。舞台は架空の日本。1948年、巣鴨プリズンで死刑宣告を待っていたA級戦犯・桐野健人は、神の祝福を受けたことにより釈放される。その後、健人は初代皇帝として長年君臨し続けるが……。神の気まぐれに支配された世界で繰り広げられる、世にも奇妙な政治劇が現在日本を逆照射する。
原爆投下から3年後の広島を舞台に、父と娘の精緻な対話が織りあげる、ほのかな恋の物語。しかし核兵器の、人類の存在をも脅かすそのおぞましい力は、可憐な娘の心にも大きな傷跡を残していた。生きる喜びを失くしてしまった娘にふたたび希望の光を蘇らせるために、いま、父は全身全霊で娘に語りかける。
(フライヤーより)1992年にはじまった〈日韓ダンスフェスティバル〉は韓日の共通点と差異をともに受け止め、同時代に生きる若い芸術家の課題や問題点を切り開いてきた歴史があります。もちろん道のりはまだまだ続きます。この遥かな道のりに新たな風を起こし、国は違えど相通ずる個々の内なる姿を鮮明にし、21世紀のダンスの現場を構築していきたい…。そんな思いで、一時中断されていた〈日韓ダンスフェスティバル〉の名称
椿組2021年夏花園神社野外劇
1964年の東京オリンピックに向け、急ピッチで作られていた新幹線!戦後日本の復興の証としての国家事業だった。ここ新丹那トンネル工事の現場では難題山積みとなっていた。そこに若い男がやって来て事件が!そして今、箱根駅伝のエピソードと時を越えて繫がっていく・・・。かの昔、熱海の初島に伝わる龍神伝説も!そんな幾つかの「物語」が時空を越えて閃光となり駆け抜けていく!!
歌舞伎十八番の内
平家を滅ぼし、大功を立てた源義経は兄頼朝の勘気を受け追われる身となる。舞台は奥州の加賀国、安宅の関所。関守は英知優れる富樫左衛門である。関所の役人らの目をくらますため、家来の弁慶と四天王は山伏の姿となり、主君の義経は強力(荷物持ち)に身をやつした。が、一行は呼び止められ、山伏ならば、勧進帳(東大寺再建のための)を持っているはず、読み上げよと命じられる。何とかその場を繕わねばと、弁慶は持ち合わせの巻
室伏鴻と山崎広太の即興バトル。舞台をリングに見立て、即興ダンスで競演する。当時苦境にあった山崎を支援する為に企画された歳末助け合い興行。
さて今回の芝居は、十年がひと昔なら、ふた昔半以上前の東京のはなしです。この時代を「昔のはなし」と思うか「ほんの昨日のはなし」思うかは、見る側の「その時代」への個人的な思い入れによって変わってくるでしょう。ただ言えることは「その時代」が、感覚的な距離感の違いはあったとしても、手繰り寄せれば間違いなくストレートに現在に継ながっているということです。(フライヤーより)
「隅田川 森羅万象 墨に夢」プロジェクト企画
オンライン演劇。コロナ禍での「映像配信で実現する演劇体験」を追求した、全く新たな「隅田川物」として表現。江戸時代に隅田川で起きた落橋事故という大惨事。人々はこれを落語『永代橋』に昇華させた。この悲劇さえも笑いに変えて力強く生きる江戸の市井の文化に着目し、歌舞伎『八幡祭小望月賑』など隅田川ゆかりの古典作品群をコラージュ。コロナ禍に苦しむ現代と事故当時を重ね合わせ、カタストロフを乗り越える人間の逞しい
東京都のゴミ収集袋に指定がなく,中身の見えない黒いゴミ袋が全盛だった1990年。うち捨てられた失踪中の弁護士、ゴミ収集を生業とする者たち、夜ごと集まり「パパ」と呼ばれる初老の男にゴミを届ける娘たち、娘を探す夫婦・・・ビルの谷間の高架下で出会った孤独な魂が、救済の雪を待望する。同時に「不特定多数の娘を持った『リア王』の物語」として、フェミニズム問題をも視座に入れたシェイクスピア作品への新解釈を示す。