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日本の現代演劇ポスターデジタル化プロジェクト2023
150点の現代演劇公演のポスターをアーカイブ。公演のキービジュアルがデジタル展開され難い、1960年代から80年代を中心に、紙で現存するポスターをデジタル化。ポスターのセレクションは、1960年代以降の舞台芸術系のポスターを収集・保存、これまでも研究や数々の展覧会に協力する等、演劇公演のポスターに造詣が深い、ポスターハリス・カンパニー社代表の笹目浩之氏が担当。
公募出演者と共につくる、群衆が主人公となる白昼夢のような演劇作品。街にはたくさんの人が蠢いています。交差点でふと顔を上げた時にそこにいる多くの人たちの人生を一瞬想像しようとする時があります。しかし信号は青になり、人々はどこかに去っていきます。これからさき出会うことのない人たちがなんてたくさんいるんだ!そんなことしか思えないまま日々は過ぎていきます。しかし、演劇でならその想像の先を、青信号の先を考え
COCOON PRODUCTION 2021
干拓事業の賛否に揺れる諫早湾の現実に絶望して町を去り、都会の片隅のブリキ店で暮らす蛍一(磯村勇斗)。店主の静雄(風間杜夫)は、まだらボケの詩人。ある時、詩人を先生と呼ぶ、実はさぐり屋のしらない二郎(岡田義徳)が現れる。その依頼主は月影小夜子(愛希れいか)。「ヒトか魚か分からぬコ」と呼ばれるやすみ(宮沢りえ)も、ある約束を果たしに現れる。彼女の足には、一条のきらめくものがはりついていて──。
日本を代表する幻想作家・泉鏡花彼の傑作であり、2019年に劇団グスタフで上演した「天守物語」と対をなす作品。シアターグスタフならではの舞台装置で山奥の苔むすような雰囲気を再現。わたなえベ佳英の脚色、演出家抱晴彦による演出、和楽器の生演奏で、新たな表現で泉鏡花の幻想世界の魅力を伝えるとともに、美しい日本語の響き、その魅力を伝えていく。【あらすじ】かつて妖怪と人間との間で交わされた約束が時を経て伝説と
風の庭プロジェクト2009
松尾芭蕉(1644~1694)の「奥の細道」の俳句を題材にした春夏秋冬の風楽作品。暗い細道を通り抜けた鮮やかな夏の彩。月日は百代の過客にして 行きかふ年も又旅人也 田一枚植ゑて立去る柳かな卯の花をかざしに関の晴着かな(曽良) 夏草や兵どもが夢の跡 五月雨の降りのこしてや光堂蚤虱馬の尿する枕もと蚕飼する人は古代のすがた哉(曽良) 五月雨をあつめて早し最上川第4回サンパウロ市立ダンス振興プログラム
不思議な力を持つ謎の少年・喬と少女・鳩子とは?二人をめぐる怪しげな群れの正体は?闇の世界に幻惑の世界が展開される、あまりにファンタジックな竹宮恵子の作品。月蝕歌劇団が初めて演劇化。
昭和17年に生まれ、3歳の時に満州から引き上げてきた十和子の激動の人生。少女時代の初恋は実らず、夢と現実の違いに打ちのめされそうなとき、幸せにすると誓う男が現れ結婚したのが運のツキだった。男はDVモラハラ夫と化し、日々息子と泣き暮らした。やっと離婚して実家に逃げ帰るが、老いた母に女中のようにこきつかわれる日々。両親の介護を終え、晴れて自分の人生を歩み始めた十和子の元へ、震災で失業した息子が救いを求
プロジェクト大山と田上パルによるダンスと演劇のコラボレーション。1940年に上演された『日本』三部曲に想を得て制作された作品です。1940年は、アジア初となる東京オリンピックの開催が計画された年です。しかし日中戦争の長期化によりやむなく中止されます。その一方で、この年には皇紀2600年を祝う様々な記念行事が催されていきます。第一線の舞踊家達が賑々しく集う『日本』三部曲もそのひとつ。平和の祭典が中止
さて今回の芝居は、十年がひと昔なら、ふた昔半以上前の東京のはなしです。この時代を「昔のはなし」と思うか「ほんの昨日のはなし」思うかは、見る側の「その時代」への個人的な思い入れによって変わってくるでしょう。ただ言えることは「その時代」が、感覚的な距離感の違いはあったとしても、手繰り寄せれば間違いなくストレートに現在に継ながっているということです。(フライヤーより)
大胆で個性的な製品で知られた京都の老舗着物メーカー小松屋の「蔵人グループ」の旗上げショー。会場は京都国際会館のエントランス野外で、当日は雷雨に見舞われたが無事に開催された。着物地を素材とした「16世紀吠える男どもの衣装」を白虎社の男性舞踏手がまとって踊る。白虎社のニュースレターに掲載された「蔵人」の広告には、「蔵人とは〇〇に逆らって造った 本当はプライベートブランドです」とある。
舞台劇
生きとし生けるもの全てと対話した宮沢賢治。彼の歴史は愛の軌跡である。最愛の妹、一番の理解者であったトシと、彼が自由に羽ばたいた創作の宇宙「イーハトーブ」。莫大なエネルギーを費やしながら生きた、37年という短い生涯の中で、彼が夢に描いた「イーハトーブ」から発信され続ける、自然や生物を尊び、争いごとのない平和な世界を願うメッセージ。
認知症の父がひとり残されたい家。兄はその家を売却し父を施設に入れようとするが、そこには死んだはずの弟の霊が棲んでいた。石川を舞台に、片付けられない家と感情を描く静かな物語。
1985年に起きた日航機墜落事故を特異な発想と批判的な笑いで描きながら、そこに深い鎮魂の思いをこめた作品。事故から半年後に初演。リアルな形で事故が再現されるわけではなく、虚実の間を縫いながら物語は展開。ラストシーンは衝撃的で、茶の間の壁が一挙に反転し、機体の破片とがれきがなだれ落ち、御巣鷹山の事故現場となる。安全な日常そのものの茶の間が、非日常の事故現場に直結していることを示す。
人は出会いの刹那を繰り返す。海で出会う子どもと老人、新宿バッティングセンターで出会う若者たち、海に住む夫婦。人々の姿が地層のように重なり、時にすれ違う。本作はムニ『カメラ・ラブズ・ミー!』(2022年、こまばアゴラ劇場)で上演された作品です。
難病を患っていた少女・そら。少女の看護師でもあり個人教師でもある時枝。二人は列車に乗って行くあてのない旅に出た。その旅はひどく破天荒であり、幻想的であり、可笑しく、切なく、明るいものであり、暗闇と光の射す方を行き来する旅路であった。そして、二人は一体どこにむかうのか。
日本を代表する劇作家で童話作家の別役実が、「西遊記」を下敷きにして、2005年にピッコロ劇団に書き下ろした奇想天外なファミリー劇場『飛んで 孫悟空』。兵庫と東北、ともに震災を経験した地域どうしの演劇を通した交流を発展させるため、仙台で活躍する俳優4名を客演として招いて製作、2014年8月、ピッコロシアター、いわき芸術文化交流館アリオス、日立システムズホール仙台(仙台市青年文化センター)で上演。
緘黙症(かんもくしょう)を患うナオキ。隣にはいつも、幼馴染のケンジがいた。2人はツーピースバンド『ニューノイズ』を結成し、夢に向かって突き進み始めるが、夢半ばで、今度はケンジが突発性難聴を患ってしまう。2人に立ち塞がった、どうしようもない現実。 『俺はさ、神様なんかじゃないんだよ』 若すぎる青春の果てに、2人が見た残酷であたたかい風景とは...演劇初挑戦のウラニーノ山岸賢介を迎えた、青春音楽劇。
世間を震撼させた千葉県連続不審死事件の犯人が逮捕された。容疑者・清水謡子は5件の殺人容疑で起訴され、マスコミと世間の注目を集めたが、本人は一貫して容疑を否認している。『週間 明朝』もまた、多くの週刊誌と同じく清水に注目していた。他者を出し抜き、なんとしても清水と接点を持ちたい『週間 明朝』の編集長は、記者・実方融を清水と獄中結婚させてしまおうと目論むが、清水は出版社との面会の一切を拒否していたため
地下鉄のホームで電車を待っていた裁判官・徳丸 透 (トクマルトオル) は、15年前に捨てた息子・春 (シュン) が向かいのホームに立っているのをみつける。春の眼が見えないことに気が付いた透は、赤の他人を装い近づき、「一緒に住まないか」と誘う。一度破綻した親子の、二人暮らしが再びはじまる────。
暗黒の世界に住む妖怪の首領は、汚れつつある地球を競売にかけ、売り払おうと考えています。妖怪たちの企みをよそに、子どもたちは無邪気に楽しく毎日を送っています。そんな中で主人公のあいちゃんは地球環境を守ることの大切さを語りますが、友だちにもなかなかわかってもらえません。でも、あいちゃんは皆で助け合えばきれいな地球を守ることができることを確信し、その気持ちをマンガで世界に訴えていくことを決意します。
社会とつながろうとして失敗した家族は海の上で暮らしていた。漂流するその家族たちにゆっくりとガレキが、家のガレキが、近づいてくる。ガレキは漂流家族たちの間をぬって海辺へと流れてゆく。家族たちは新しい社会とのつながりを求めてそのガレキを追うが…。
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(フライヤーより)ユニークな演劇理論と演劇様式で大きな注目を浴びている青年団。舞台に繰り広げられるのは、一見とりとめのない日常のお喋り。が、いつの間にか緻密でユーモラスな”劇的”世界の迷宮に引きずり込まれます。「新しい言文一致」に基づく「新しい現代口語ドラマ」を提唱する同劇団、『暗愚小傳』ではこの方法のもと、高村光太郎、智恵子の1910年代から40年代まで四つの時代の日常シーンを描きながら、詩人が
金もない、女にもモテない、さえない葬儀屋の主人・早川は、女房に仕事も家庭も夜の営みもダメだダメだと攻められてばかり。そんな早川のもとに、美しい女が現れて、自分は“死神”だと名乗るのでした。美人過ぎる死神の名前は“ロロ”。ロロは早川に金儲けの話を持ちかけます。死神が寝込んでいる病人の枕元にいる時はその患者は死ぬけれど、足元にいれば病人は助かる、死神を追い払う呪文を教えるから、金持ちの病人を助けて金儲
舞踏の現場’98 in KYUSHU
土方を通して土方の彼方へ。私を通して私の彼方へ。舞踏の現場、舞踏の現在はこの私の肉体の裡にある。ー原田伸雄 (公演フライヤーより)
日本ミュージカル界を代表する演出家小池修一郎と、フランスの人気作曲家ドーヴ・アチアによる新作ミュージカル。本作はフランスの小説家モーリス・ルブランの「怪盗ルパン」シリーズを下敷きに、自由な発想で、各キャラクターが入り乱れる冒険活劇ロマン。アルセーヌ・ルパンと魅惑的な美女カリオストロ伯爵夫人、令嬢クラリス、シャーロック・ホームズをはじめとした著名なキャラクター達が登場し、財宝を巡って様々な駆け引きを
1982年ソウルから始まった「アジア演劇祭」の第二回の開催地はマニラ。映像では、開会式やパレードの他、インドのオリッシー舞踊、インドネシアのTheatre SAE DKI、台湾Lan-Ling Theatre Workshop、韓国Dae Ha Dramatic Troupe、フィリピンからの参加団体による作品を紹介する。日本からはYokohama Performance Group、さらに白虎社
滞在制作プロセス映像
2021年11月20日(土)、21日(日)に静岡県掛川市の原泉地区で上演したパフォーマンス作品『風景によせて2021 はらいずみ もやい』(「HARAIZUMI ART DAYS!2021 ~相互作用~」に招聘)。その日、その場所でしか観ることのできない風景での上演作品は、どのようにして生まれるのか。原泉でのクリエイションや暮らしに4ヶ月間密着撮影した、創作過程の貴重なドキュメンタリー映像。
自らを「をどるばか」と呼んだ石井漠。9.5ミリフィルムの映像が残されている石井漠作品「グロテスク」(1925)を、プロジェクト大山流にリコンストラクションする。プロジェクト大山色全開の衣装にも注目したい。大野一雄フェスティバル2013参加作品。
2020年10月〜11月に開催された現代アートイベント「原泉アートデイズ!2020」の参加アーティストとして、静岡県掛川市原泉地区での滞在制作に5ヶ月間取り組み、集落の田園風景を舞台にしたパフォーマンス『風景によせて2020』を発表した。本映像は、この作品の演出・構成を務めた中谷がクリエイションを振り返ったインタビューと、現地での制作過程を体感できるドキュメンタリー映像を収録している。
韓国戯曲を日本で広く紹介することを目的に、第一弾として、現在韓国で人気の作家、オセヒョクの作品を一気に3作品上演。本作品は、生活苦の父母息子が、それぞれの目的で、クリスマスになんとかお互いから30万ウォン(約3万円)を借りようとだまし合う。コミカルなやり取りを通して、かけがえのない家族の愛が浮き彫りになるコメディ。
NPO法人ダンスボックスのプロジェクト「こんにちは、共生社会」から生まれたダンスカンパニーMi-Mi-Biは、障害の有無に関わらず、プロフェッショナルなアーティストの集団として活動している。今作はカンパニーの2作目。兵庫県豊岡市で開催された豊岡演劇祭の公式プログラムに招聘され、「島」をテーマに上演した。それぞれの身体や感覚を生かしながら新しい文化を創造し、歴史を築いていく様子を「島」に例えて表現。
その川には、龍の女が住むという。舞台は在りし日の東京。川や土と共に暮らす日々のあった頃。氷屋を営み、その財と力で名を馳せたある男と、その一族の物語。その年の氷の味は、初雪の色と龍の機嫌で決るらしい。川面を清める桜を待って、冬の星座が雪を降らす。梳いた黒髪、銀の帯、結んだ小指のその先に。「雪の白さに惑わされてはなりません。冷たく見えても、その下には、抗えないほど赤い血潮が隠れているのでございます。」
高校の同級生カナコの突然の事故死から一ヶ月後、東京に住むわたしと地元高知に住むマナカの二人は須磨に住む高校の同級生、藤くんに会いに行くことになる。旅の途中、ヒッチハイクをしていた松田さんとサービスエリアで出会うが。本作はムニ『カメラ・ラブズ・ミー!』(2022年、こまばアゴラ劇場)で上演された作品です。
『むこうの世界』へ旅立つことを夢見て、さすらう人々の群れ。いつしか、その夢は立ち消え、現実的世界に引き戻されてしまう…。寺山修司没後十年、鄭義信が寺山の劇世界をベースに描く少年の希望と世界の果て。寺山劇の単なる復元ではなく、全編に寺山作品の断片をちりばめ、寺山が愛用した「世界の果て」というモチーフを使いながら鄭自身の劇世界に寺山修司を引き寄せる形で新しい物語を作り上げた。
「ドリームタイム」とは、オーストラリアのアボリジニーの時間感覚で、過去と現在と未来が同時に存在する神話的時間の流れ。この公演では、"私は何処から来て何処へ行くのか"という視点の元に<宇宙と大地、人間と人形、生と死>の間など、様々な境界線上にあるものをテーマに、古代的なもの、現代的なもの、未来的なものの時間が層を成して流れている様を多様な作品群の集合体として実験的ライブスタイルで上演した。
東京という土地へと集まってきたものたちの生活と、茫漠と捉えられない街がもつ混沌と情景を拾い集めます。映画館のスクリーンに現れる光と影が明滅するように、去っていくものと残るものとが交差する一日一日。生の曖昧さを強く肯定するミニマルな運動と、変化する社会の中で意味など必要なく確かに存在することを見つめた身体と言葉と音楽によって、この瞬間の“トーキョー”をスケッチして描き出すライブパフォーマンス。
1980年『月蝕歌劇団』、1981『黄金箱』につづく流山児祥(演出)+高取英(劇作)の戦前派三部作の完結編。昭和15年(1940年)、東京を、怪奇紅マントの噂が席巻した。「婦女子を誘拐し凌辱する」紅マントの噂とはいったい何だったのか?日中戦争(支那事変)から太平洋戦争(大東亜戦争)へとうつりゆく戦争下、当局は、紙芝居「紅マント」を弾圧、焼却した。燃えていく紙芝居は、紅マントの噂を消滅させたというよ
あらすじ:「ここじゃない、どこかに、オレたちの生きる場所がある!」三匹のネズミたちが大学病院の実験室から逃げ出した。そして、ちょっと元気のない少年元気との出会い。ある日、ネズミたちはふと考えた。「なんとかなるさ」を「なんとかしなくちゃ」に変えよう!それは、少年元気へのメッセージでもある。少年元気と三匹のネズミたちの珍騒動。
白虎社結成十周年+南方熊楠没後五十周年記念企画〈伝染するメディア〉シリーズ三部作Ⅰ天の巻
博物学者・南方熊楠のマルチメディア的好奇心に支えられた天地創造神話。1984年初演。1988年の第一回東京国際演劇祭では、50度にはなろうかという大テントの中で、「目的完成を欠いたこれほどの愚行は世界広しといえども、白虎社以外にはないだろう」(「別冊太陽 60’s~90’s」1991年平凡社)という舞台だった。本映像は、白虎社結成10年を記念して、その野外編として神奈川県藤沢市、熊楠も住んでいた和
「廃校から、劇場へ」と銘打ち、レトロな木造校舎全体を回遊しながら物語が進む回遊型の演劇を作り、廃校の一つの活用方法を提示する目的で制作が始まった。主人公の少女は、曽祖母が残した1通の手紙に書かれてある「野麦でお会いしませう」に導かれて野麦を訪れる。野麦の民話や伝説をモチーフにしつつ、そこで出会う奇想天外な人・妖怪たちと不思議な体験をするオリジナルファンタジー劇。
ショパンは、ジョルジュとの蜜月時代に圧倒的多数の楽曲を作曲し、その後はわずか3曲しか作っていません。当時、男性社会であったヨーロッパで異質の才能を発揮した女性ジョルジュは当代一の弁護士ミッシェルを深く信頼し、ミッシェルはジョルジュとショパンを支えていきました。斎藤憐と佐藤信のタッグで創られ、20年以上愛された本作は、毎年上演され続けています。三越創業三百五十周年記念公演として作品史上初全員女性での
舞台は香港の九龍城砦を思わせるアジアのスラム、あるいは牢獄。ブルースに乗せた血みどろの男たちの生きざまを描くハードボイルド活劇として、不能の時代をブッとばすマシンガンのようにシェイクスピアを〈明るい虚無〉=世紀末に生き返らせる。
2.5次元ミュージカル/舞台
ある日、チキン南蛮は過食嘔吐癖のある加奈子に吐かれ、無念から地縛霊になりました。友達のいなさから発狂しそうになった加奈子はインコを飼い始めましたが、相手は鳥。そうそう思い通りにいきません。そんな中、初めての彼氏が出来ました。これは依存症の女の子とチキン南蛮の地縛霊とインコとプレイボーイが出て来る、チキン南蛮を消化するまでのお話です。
あらすじ:いつも一緒にいる仲良しのサトシとリョウタ。ある日、街で怪しいおじいさんが目の前を通り過ぎます。おじいさんを付けていくと『なるほ堂』という店に入っていきました。あれ、ちょっと待てよ、ここにこんな店あったっけ?二人が中を覗くとそこには変な物や不思議な物がいっぱい!はてさて、『なるほ堂』とは一体……?彼らをまちうけているものは何でしょう。ファンタジックでリアルな冒険の始まりです。
『ガリレイの生涯』のなかでブレヒトは、民衆の知性・理性への熱い信頼を謳っています。しかし、理性とは真逆のものにとりつかれた民衆がナチスを支えた時代、ブレヒトはどんな思いでこの戯曲を書きあげていったのか。「真理が自分を守るのに弱すぎる場合は、攻撃に移らねばならない」とブレヒトはガリレオ・ガリレイのい語らせる。このことばがぼくらのグループを震撼させる。グループのひとりひとりに対してさまざまの衝迫力で問
ミュージカル『テニスの王子様』4thシーズン
テニスの名門校・青春学園中等部(青学・せいがく)に入学してきた越前リョーマは、アメリカJr.大会4連続優勝の経歴を持つ、テニスの天才少年。青学(せいがく)は地区予選を順調に勝ち進み、決勝戦へとコマを進めるが、決戦の対戦校は意外にも昨年暴力沙汰で大会出場を辞退したノーシード校・不動峰であった…。不動峰の気迫に、苦戦を強いられる青学(せいがく)レギュラー陣。地区予選の優勝をかけた、最後の一戦が始まる。
どんな苦しい時代でも、それをはじき返してきた民衆の力、とりわけ子どもたちは “あそび” の中で文化を再創造し、今に繋げてきたのではないでしょうか。“岐阜”という土地から「遊び、地域、文化、人間」をベースに、様々な遊びをわらべ唄で繋ぎながら、最後には民話を脚色した「はなさかこぞう」を三味線語り芝居でおおくりします。加納の和傘、美濃和紙、岐阜提灯など岐阜の人々がつくり出した技に包まれ、昔を懐かしみ
お待たせしました。今年の「キラリ☆風流寄席」は「江戸風情」と「怪談噺」。ご家族全員でお楽しみください。
Saint Live Sparking 白虎社'82連続犠肢体行脚
1982年、Saint Live Sparkingと題し、白虎社が関西一円で行ったライブハウスツアーの編集映像。公演タイトルは『「サイレント独楽」-月より速く-』『「草の上の昼寝」-水から油へ-』『「ゾンネンシュターンの夏」-からっぽの世界-』。
風の庭プロジェクト2007
ユニット風舞妙韻による俳句から生まれる風楽作品。第1回風の庭プロジェクトで構想・総合指導:田中トシ。アルテゾンス・ド・コーポ、ニレ・アートとのコラボレーションにより風の家(サンパウロ)の砂舞台で催された。それは家族、庭、コミュニテイーそして身体と自然を廻ぐるパフォーマンスアート。2007年サンパウロ州文化局文化活動プログラム(Pac)の助成で実現。
「モンテ・クリスト伯」という題材を選んだのは、かっこいい言葉がきら星のようにちりばめられているからだ。「モンテ・クリスト伯」というストーリーを再現するのではない。アレクサンドル・デュマが書いた言葉を、百何十年か前に書かれた瞬間の鮮度で再現したいのだ。おしゃれでカッコいい、スピーディーでスリリングなコンサートのような舞台として上演しようと思っている。
あらすじ転校生のグミは修学旅行に行ったことがなかった。友人の卓球、カニカマ、マド、庭っち、カッパの6人で2026年東京にニセ修学旅行に向かう。ニセ修学旅行以来会ってない友人たちは10年後居酒屋で再会する。そこにグミはいないが、なぜか彼らの話がわかる。思っていることがわかる。グミは友人たちの話を語りはじめる。
“雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通”俳人小林一茶を知らない人はいないだろうが、人間小林一茶を知る人は少ない。十五才で信濃柏原から江戸に出た後の行動は謎に包まれたまま、いつしか俳諧の道で頭角を表してくる。ようやく五十二才で結婚するが、いとしい子たちは次々とこの世を去るのだった。“蝉鳴くや つくづく赤い 風車”だが一茶の人生は大きくうねりつづける。江戸と信濃柏原、二つの土地の間で一茶の愛が、欲が、生
ひろい世界の中の 星粒のような わたしの在り処(ありか)一番大きな面をまず、草原と、鳥たちの群れのラインで分離する。ところどころに、小さい花を散りばめる。上から順に色の名前を言う。また、音楽を添えてみる。いつか夢で見た場所と照らし合わせる。その中をそっと、歩いてみる。
その外見から疎まれ続けたリチャード三世は、饒舌な語りによって周囲を惹きつけ権力を手にするものの、王座に上り詰めた途端その言葉は力を失う。本作ではリチャードを、形を持たず移り変わっていくものとして描き、どんな時代にも現れる言葉巧みな為政者の姿を浮かび上がらせる。「台詞を語る俳優の身体」は、「何者にもなりきらない」能という演劇の形式を借りて、リチャードを現代に描き出す。約100年前の坪内逍遥訳で上演。
1986年に起きた大島三原山の噴火に触発されて描かれた、人類の暴挙から生まれた怪獣「ゴジラ」が、人間の可憐な少女に恋をするという育奇想天外な恋物語。怪獣「ゴジラ」を等身大の俳優が演じ、観客との共同幻想で、舞台に巨大な「ゴジラ」を登場させた。大島元町に住む一之瀬家では、長女やよいからの「会ってもらいたいひとがいる」という電話に、上へ下への大騒ぎ。しかしそこに現れたのは「ゴジラ」だった。家族は猛反対、
人は何によってできているのだろう。自分ではない「誰か」として、ぼろぼろ忘れながら、忘れ物を毎日しているような気分で生きている気もする。他者の知覚を追体験することはできるのか。「痕跡」「傷」について、顔を巡る旅をします。映像撮影に小宮山菜子さんを迎えての無観客配信作品です。
風に色があるか否かは知らないがうつろう風のなかには、確かにそれぞれの景色が棲んでいる。風の景色を見た時から人は踊りを知る。しあわせなことに景色を見たのが、少年の頃であれば、少年は必ずダンサーになる。だが不幸なことに、知らなければ何事もなく終わってしまったであろう人生のなかばで風の景色を知ってしまった人は哀しい。