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サプリメント販売で急成長を遂げた嶺岡幕府商事。社長がちょんまげ姿で登場するCMが大人気で主力商品減量丸は大ヒットを続けている。社長の嶺岡義政とその元妻富子はなぜか異常な室町幕府好き、社長を将軍と呼ばせ、京都室町本社を室町御殿、東京事務所を鎌倉御殿と名付けて室町幕府を偏愛する奇妙な経営を行っていた。この会社には一年間だけ鎌倉御殿で研修する制度があり、ある日、女性が一人やって来た。さて、そこで待ち受け
ロシア文学史上、最も有名な作品!・人を冷酷な殺人へと追い込むものは何か?・殺人者は、いったい何を考えているのか?・どのような社会が、殺人者を生み出すのか?これらをテーマにロシアの文豪ドストエフスキーによって書かれた『罪と罰』。時代を超えて世界中で読み続けられているこの小説には現代でも色褪せない様々な思想や哲学が盛りだくさんに詰まっています。が、それだけではなく『殺人者』 VS 『警察』の頭脳戦はサ
(フライヤーより抜粋)「場所と思い出」「雰囲気のある死体」といった別役氏の戯曲を読んでは、あまりのくだらなさに何度も吹き出し、電車の中や図書館で恥ずかしい思いをしていた高校時代の私にとって、別役実という人は”ナンセンス・コメディの巨匠”でした。─ケラリーノ・サンドロヴィッチ
コンセプト:『星の王子様』×『禅』。映像を駆使した空間演出と会場のデザインを活かした演出。音楽家とのコラボによる新たな観劇体験の提供。内容:水槽を旅する不思議な魚と肉親の死と事故によって塞ぎ込んだ青年との出会いと別れを描く物語。物語の中心にあるモチーフとして星の王子様と禅をとりあつかい、世界は自分自身が何を思うかによって変えることができることに気づき、最後には青年が外へ踏み出す話となっている。
深津篤史の作品のモチーフの一つである阪神淡路大震災を描く作品。舞台は、倉庫の様にも、船の甲板のようにも見える。亡くなった友人の命日に集まる男女4人、別居中の妻を震災で失った男や別れ話の女性カップルなど、喪失感を抱えた人々が非日常の時間の中で交錯する。
いつの時代だって、若者の言葉は『乱れて』いた。いつの時代だって、それを許せないオトナがいた。新旧世代の葛藤をコミカルに描きながら、現代日本の言語状況に迫る知的コメディ。「見れる」「来れる」「食べれる」……日本語の乱れの象徴としてよく話題になる『ら抜き言葉』。現代の若者の話し言葉の乱れを題材にしながら、言葉と生きる姿勢の深いかかわりに着目した傑作喜劇。
父が死んだ。「死んでしまえ!」と何度も思ったあの父が、医療ミスで死んだ。医者として最先端技術に邁進していた父。その死に対して意外にも浮かぶ無念の思い。父と母の出会いから別れまで一つの夫婦の物語を岩井は見つめ直す。父は何を信じ、母は何を信じていたのか。生きる意味とは何か。なぜ一緒に生き続けたのか。人と人が共に生きるとはどういうことなのか。たくさんの記憶と出来事を辿るその先に答えは見つかるのだろうか。
ここは 1960 年代のようなアメリカかもしれない。一人の経営者が離婚を発表した。機に、誰もが恋し恋される愛の当事者になった。女は言う。 「このタバコの煙はやがて消えるけど、私の想いはずっと消えないわ」男は言った。 「灰になるほどに燃えるような恋をするっていうのは?」 男と女の恋模様はいつだって煙の中だったのさ。スラステ初のシンギング・スーパーロマンティックコメディミュージカル!
(フライヤーより)『魚の祭』は崩壊した「家族」の蘇生の物語である。この夏、あなたは「家族」に出会う……
どこにでもある交差点には、欠かすことなく花が供えられている。通りかかる誰もが、それを見て察する。「ああ、ここで人が死んだのだ」1つの不幸な事故をめぐり、交わるはずのなかった人間関係が生まれた。めぐりめぐる、まじりまじわる、ぐるぐるぐるぐると、奇妙なワルツのように……。暴走する大人の事情―――ノンストップ・トラフィック・サスペンス。
大手広告代理店DK2のコンサルティング部に勤める栗宮春子が劇作家の小野司に相談したのは、「前田の刃」で有名な食品加工機器メーカーのトップ「MAEDA」で実施予定の社内結婚推進キャンペーンのインターナルコミュニケーションについてである。「男性の育児参加の推奨のために保育室を設置しました」など、対外的な情報の発信はできてるものの、結局社内であまり使われていないという課題があった。また、男女の社員同士な
大杉栄と伊藤野枝の娘として生まれたルイズ。彼女は国賊の娘として周囲の特異な視線にさらされながら、自分の生き方を探し続ける。姉・魔子の攻撃的で、自虐的な生き方と対照的な静かな暮らしを選択したルイズの目に、次第に父、母の残してくれた思想がはっきりと浮かびが上がってくる。関東大震災、第二次世界大戦、戦後の復興を背景に、ルイズの半生が描かれる大作。立原りゅうと山内久のコンビが、松下竜一の原作を見事に脚色、
親の反対を押し切り役者を目指すと上京した勘介は、周囲には黙っているが既に夢を諦めADのバイトをしている。友人にも「出演ドラマの撮影だ」と見栄を張り、地方ロケの番組スタッフとして数年ぶりに実家に帰ってきた。家族旅行の隙を見計らっての帰郷、のはずだが、家の中を見知らぬ女や半裸の男がわが物顔でうろついている。混乱する勘介の前に、自分を憧れと慕う町長選挙立候補中の幼なじみも現れ、見栄とごまかしは次々折り重
生命保険会社「第三生命」でしのぎを削る保険営業たちはリスキーな日常に陶酔し麻痺していた。新年度、営業部に社内初の女性部長が誕生する。ヘッドハンティングされてきたのは保険営業のプロと保険営業の素人だった。対極の女性部長が二人。新体制となった営業部を舞台に言葉のガソリンで回り続ける保険屋たちの群像悲喜劇!ステージ上に2つの可動型高座を組み、2人の講談師によるピアノの連弾ならぬ、講談の連談演出に挑みまし
それは、忘れていたのだ。きれいに。ほんと、きれいに。箱入り娘というか温室育ちというかそんな感じで育てたもんだから全く外へ出ようとしない。だからどうか外の景色を見せてやってください。そう頼まれて僕が会ったその子は僕の口元にとびきり顔を近づけておねがいをしてきた。もう、…いいから。そんなの、いいから。旅しようよ。そう、この星が朽ちるくらい長い永い時間をかけて。
本公演
後悔は再生にたどり着けるか。人は誰でも過ちを犯す。その最悪の一つは偶然の巡り合わせであれ過失であれ他者の人生を踏み躙ること。自らが加害者であったことに気付いた時、良心ある人間は後悔する。ただし後悔の深さはそれぞれだ。人類が後悔を失った時、そこには文明の瓦解が待ち受ける。トルストイは良心によってこの瓦解を食い止めようとした。抱月はわが国の近代化をまず良心の浸透に求めようとした。文学者たちは、志半ばに
都会の片隅に残され、今では粗大ゴミの不法投棄場と化した丈高い草の生い茂る原っぱで、予備校生のエイジは夜な夜なまっさらなキャンバスに映る影を写真に撮っている。それが彼の描く「19歳の絵」だ。ある夜、二人の男子高校生がベッドを捨てにやって来る。一緒に現れた女子高生を一人残し、彼らは去っていくのだが、やがて舞い戻ってきた男の一人・オサナイは「何してた?」とエイジに詰め寄る。エイジが女子高生・あきらと話し
舞台は駅のホームや海辺の空き地。残された人と逝ってしまった人々が出会う物語。阪神淡路大震災の風化していく記憶をファンタジックに描く、深津篤史の代表作の一つ。初演は2002年。2012年の再演を経て、2013年に桃園会20周年記念二作上演として『よぶには、とおい』と同時上演された。
オスカー・ワイルド原作の名作童話を原作に、大人も子供も楽しめる、目にも楽しい朗読劇を創作。平和への祈りに満ちた視点で、温かくほろ苦く翻案したオリジナル戯曲です。「青色文庫 -其弐、文月の祈り-」と題した、古民家でのリーディング上演を、美しい映像作品にした本作。親子でもお楽しみいただけます。お客様からの熱い再演希望により、劇団のレパートリーとして繰り返し上演。大人の絵本のような、珠玉の短編作品。
電信柱が一本、その下に、ひしゃげた事故車が一台。夕焼けの中、ヨシ、ダイスケ、ヒロシ、サブローが集まっている。胡散臭い「ショーバイ」を始めようとする彼らのもとに、ケイコ、ヤスエ、フーコがやってくる。彼女たちは、ミッキーの子を妊娠したため父親の怒りを買い、家に閉じ込められているミヨコを連れ出す計画を持ち掛ける。ミッキーとミヨコは、「トーキョー」へ行くらしい。ミッキーに金を工面してやろうとする元彼女のサ
第12回せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ受賞記念公演。劇場を舞台にした2つの二人芝居。【舞台編】舞台は、劇場の公演準備前の舞台。俳優がひとり舞台の上にいると、台本の台詞を正確に喋る見知らぬ男が現れる。それはすでに削除されたはずの台詞だったー。劇に登場しなかった登場人物とその役を演じるはずだった俳優の物語。【客席編】舞台は劇場の客席。劇の結末に納得できない登場人物と、人生でたった一度だけ見た劇の
経営者である小山田輝の元に、弟の春が帰ってくる。輝は、不安定な春を心配し、在宅の仕事を増やして見守っている。春は怪しげな友人、佐久間を家に招き入れ、何かを計画している。外では野生動物たちが出没し、ペットは脱走する。町の奇妙な変化に春は関わっていることをほのめかす。新しい秘書兼家政夫の山鳥、その紹介でやってきた整体師も不審な動きを見せ、小山田家は徐々に輝のコントロールを離れ、混沌としていく。
(フライヤーより)一つの役を「動く俳優」と「語る俳優」が二人一役で演じるというユニークなスタイルで人間の喜怒哀楽をダイナミックに表現して脚光を浴びるク・ナウカ。この方法によって、日常を越えた巨大なスケールの人物を舞台に描くことが可能になりました。今回の作品は93年に利賀フェスや韓国でも上演され、代表作と言われてきた『サロメ』の完全新演出版。5年前、青山演劇フェスで旗揚げしたク・ナウカの、満を持して
作:高橋恵(虚空旅団)&演出:上田一軒(スクエア)コラボレーション作品
試験的に「同性婚」を認める特区となったK 市が舞台。が、LGBT ではなく、同性の友人との「友情婚」が多いという。この街で友情婚しブックカフェをオープンした朋子と美也子。美也子の幼馴染の彼も同性の友人との再婚を反対されていると言う。近親者だけでなく店の常連客まで巻き込んでの議論が始まる。ー だって、憲法にあるやろ?“婚姻の自由”ってー そういう意味じゃありません!街の小さなカフェで巻き起こる、可笑
2021年再演版
男性キャストのみによる、ごく小さな日常の一コマを巡る物語。しょうもないけれど、誰もが身に覚えのある小さな「裏切り」を素材とし、信頼とは何か? という胃の痛くなるようなテーマを浮かび上がらせます。とある休日、ロードバイクで旅行に出掛けたサラリーマン五人組は、山深い温泉宿に立ち寄った。ささいなことから言い争いを始める五人。口論は、やがて思わぬ方向に発展していき、遂には修復し得ないほどの混乱に……。
集団と、集団の言葉と、言葉の意味の侵入を基礎とする新しい舞台。大きな集団に生まれる小さな集団たちが、言葉の意味の侵入を自覚的と無自覚的に行ない合いながら膨張し、飽和し、収縮し、最後に残るべきものことの何かが残る。または何も残らない。という群像になる。
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十数年ぶりに故郷に戻ってきた女性。「変わらないようで、変わっている」風景を眺めているうち、幼少期の自分に出会う。不思議と鮮明な彼女との出会いは、女性の今後を好転させるきっかけとなった。景色を眺め、思い出しているようで、思い出せていない。「私、小さい頃、タイムスリップ、した。」
2018年、粘土の味として上演した『オフリミット』(演出:和田ながら)を、努力クラブ版としてタイトルを『そして、ここからはミューズの街』に変えて一部内容を改めて(一部といってもどれくらい書き改めるかわかりませんから、まったく別物になるかもしれませんし、全然変わってないかもしれません)、2025年に再上演します。人を好きになることにおける脱力感をやりたくなったので。
体外受精にスポットを当て「不妊治療の今」を男たちの視点で描く。パズルのように時間が往来する戯曲構成、劇場全体を待合室と見立てた舞台美術で、観客自身もまた翻弄される当事者であると思わせることを狙った作品。ある日、サラリーマンの藤枝は「㈱ファミリー・クラブ」という結婚相談所で、どこか風采のあがらない、芳野という男と出会う。芳野はファミリー・クラブで知り合った芳子という女性と2年前に結婚。芳野自身が完璧
(フライヤーより抜粋)何ということはない、日常生活のすきまから、ちょっとだけ顔をだしているおもろくて、やがて哀しき出来事達。そんな、誰もが持っている些細な出来事達を、紡いで、紡いで、少~しだけお見せします。子供部屋に生まれ、育ち、いろいろあってやがて最後に見るものは…。
遊劇体・キタモトマサヤの代表作『闇光る』から連なる、架空の町ツダを舞台に日本人を定点観測し続ける連作〈ツダ・シリーズ〉第9作。大学4年生の私は、なんとなく教員を目指していたのだが、今は教員になんてなる自信がない。役場勤めの父、専業主婦の母、歯科医と婚約が成立したばかりの姉の4人の家。私の飼っていたジュウシマツが蛇の餌食になったその日、行方不明だった伯父さんが突然現れた。伯父さんは、かつて学生運動を
TA-net舞台手話通訳養成講座(2018-2019年度/日本財団助成)の教材として書き下ろした30分程のお芝居(収録した三重公演の上演時間は37分)。3人の俳優が、家族(両親と息子)の30年間を演じます。舞台手話通訳、字幕、音声ガイドの観劇サポートがフルで導入された数少ない作品であり、上演前には事前舞台説明(10分)も行っています。
洋食屋を営む水野洸一は人前でご飯が食べられず、妻である里奈ともここしばらく食事を共にしていない。二人は10年以上付き合って結婚し、初めての人と結ばれた「理想の結婚」と周りから囃し立てられているが、里奈は洸一以外を知らない事に不安を抱えている。店の向かいにはテレビや雑誌で取り上げられる店が立ち、洸一は店の再起や関係の修復もかけて、人前で食べられない事の克服を測る為、治療に通い始める。それから再び里奈
青森県のとある町。市町村合併に反対し、現在は高齢化率が50%を超える自治体。 学校区単位の運動会は廃止され、地区運動会と一体化された。明日は来年廃止が決定した地域イベント「かかし祭り」が行われようとしている。地域おこし協力隊など新たな移住者の受け入れに苦慮しながらも、新旧町民による「まち」への問いかけが、思いもよらぬ展開へと発展する。
三日月川に子供が落ちるという事件が頻繁に起こる。その奇妙な事件を取材に都会から記者がやってきた。行き先が分からぬままに乗った船で三日月川を下っていく。川の流れは「時」の流れ。男は不思議な時間を行き来する。流れ流され 辿り着く先は何処なのか。人間どうしが惹かれあう力と全ての物体が引き合う力「万有引力」=「Gravity」を重ね、全曲Micro To Macroオリジナル曲で繋ぐ46億年の奇蹟の物語。
放浪生活を続ける作演出の実体験を元に作られた、異国の密室劇。学生時代に行った初演が好評を博し、4度目の再演。中東の安宿を舞台に、バックパッカーたちが集う。青年団の冒険王を彷彿とさせるが、舞台はその数十年後。あり得なく見えて、ものすごくあり得る話。パスポートを申請して、飛行機の切符を買って、成田エクスプレスに乗って。そしたら着いた。マジで着いた。バザールが立ち並び、街中には水パイプの香り。笑顔でよっ
ある朝目を覚ました女は、妙な既視感に襲われる。「私また、昨日にいる--。」その夜から夢に現れた鴉とともに、繰り返される一日からの脱出を試みる彼女だが……。やがて起こる日食、そして鴉によって語られる「盗まれた手紙」の正体とは?エドガー・アラン・ポーからパウル・ツェランに至る西洋詩の系譜と、2000年代日本のオタクカルチャーが形成した「セカイ系」を融合させ、現代の会話劇として舞台化。
There is Room For Compromise.そこは、高校の図書準備室。ホコリをかぶった本がうず高く積まれたその部屋。めったに人がやって来ないこの部屋は、大っぴらにはできない"生徒指導"を行うにはうってつけの場所。発端は、ある生徒が書いてきた学級劇の台本。そこに描かれているのは恋人たちの物語。もしそれが異国の王子と姫の物語ならば問題はなかった。問いかける教師。何も答えない生徒。この一冊
ある出入国在留管理局で、外国人が死亡した……。留学生であった彼女は、体調不良になり仮放免による外部の医療機関への診療を求めていた……。何故、彼女は入管内の医療機関で診療されたのか。入管内部の実態に、ある記者が迫る……。
加害者家族のその後を描く。事件から12年を経て加害者本人が家に帰ってくるところから物語は始まる。大きく変わってしまった家族がどのように再生していき、崩壊していくのかということを通して、家族の営みについて考えさせるきっかけとしたい。また、コロナ禍によってわれわれの日常/営みにひしひしと迫り寄り、覆い尽くそうとする不穏な空気感を描いた。
(フライヤーより)3年前私達は、青い実の浮かぶ海へ船出した。歳月は私達の傍らを弾よりも遠く、光より速く、高いビルディングもひとっ飛び。あたかも、その3年は軽く300年、3万年。
遠いか近いかわからないくらい未来の話。他人の病を「引き受ける」こと、他人に病を「引き渡す」ことが認められるようになった世界。いずれ潰える人の命より、もっともっととおい未来を、楽しみにする人の物語。
穂の国とよはし芸術劇場PLATプロデュース
穂の国とよはし芸術劇場PLATプロデュースの第二弾。穂の国とよはし芸術劇場の芸術文化アドバイザー(2017年当時、19年4月からアソシエイトアーティスト)であったアル☆カンパニーの平田満と劇場との共同企画。KAKUTAの桑原裕子の作・演出、平田満、井上加奈子、増子倭文江、中尾諭介、多田香織、小林勝也といった出演者により、2017年12月に豊橋、北九州、東京で上演。団地の一室を舞台に描かれた小さな作
博多弁飛び交う地方都市クツワダのとある区域。街は日々姿を変え、人や建物、新しいものと古いものが入り混じる。あっという間に変わっていく、そこそこ歴史ある街の片隅で声が響く。「運動会って、やらないかんと?」大玉転がり、大縄くんずほぐれつ、バトン飛び交う白熱の議論。伝統ある住民参加の地域運動会。やる?やらない?今こそ白黒つけようぜ、いやそこは、紅と白で!
医療事務の仕事をしながら漫画を描く結月は、才能を信じきれずプロへの一歩を踏み出せずにいる。一方、外資系から中小企業に転職した桜子は社内改革に情熱を燃やしていた。偶然の出会いから同じ仕事に取り組むことになった二人は、価値観の違いから激しく衝突する。桜子の現実主義に反発してプロを目指そうとする結月と、自分の厳しさの裏に過去の痛みを見出す桜子。すれ違う二人は、やがてそれぞれの生き方を見つめ直していく。
沖縄で生まれた高校演劇の傑作『出停記念日』。弦巻楽団では2017年から折に触れ、レパートリーとして上演。登場する5人の女子高生たちを、8人の俳優が役柄をシャッフルしながら上演するオリジナルの演出手法は、原作者・島元要からも「作品に込めたテーマを捉えた演出」と高い評価を受ける。
わずかずつ、わずかずつ/気がつくたびに日1日と/部屋が狭くなってきている。11日前の水曜日/不安を抑え切れずに/金物屋から5メ—トル計のメジャ—を買ってきた/今日だって3回計測した/昨日より1回増やしたのだ/壁から壁。/決してその手は震えていなかったのに/部屋は一晩で23ミリメ—トルもちぢんでいた/一昨日から昨日にかけてが19ミリメートル/ついに20ミリメートルを超えた/部屋は加速度を増しているく
ドラマとカオスを縦横するスペースノットブランク。CHAOTICなコレクティブによるDRAMATICなアドベンチャー。ダウンロードとアップロード。HIGH & LOW。物語とキャラクターと本人と別人が脱ぎ着する、母音だけでコミュニケーションできる「場所」。実存しない物語とキャラクターを、実存する本人が「上演」というシチュエーションを用いて実存する別人の目覚ましを鳴らそうとするための舞台。
柴幸男による、「あゆみ」「ハイパーリンくん」「反復かつ連続」「純粋記憶再生装置」からなる四つの短編集。
パクチーを育ててるんだと彼女は嘘をついたとある地方の寂れた町。結のアパートは町の真ん中からさらに離れたところにある。鉢植えばかりになった小さな和室にももう慣れた。慣れたというより違和感に悩む余裕がなかった。種まきから収穫まで淡々と、けれども抜かりなく育てる日々。大学の授業も抜かりなくこなす日々。そうしてすべてにおいて抜かりなくやっていたはずなのに、いつの間にか取り返しがつかないことになっていると気
集まれない人々。リモートでつながりを持とうとする。しかし、やることは、簡単なテーブルゲームで遊ぶだけなのだ。その中の梨田という男は仕事はテレワークで一人暮らし。誰とも会えない生活を過ごしている。自分のことをヤドカリだと思い込むようになった。そうでもしないと自分が保てなくなったのだった。この世の中は海底で、息苦しいのはそのせいだと思っていた。妄想の中の彼は海の底でじっとしている。ただそれだけ。いつも
ロンドンの方で上演された「男たちの番か?(原題:Men’s Turn?)」。日本人キャストによる日本版が上演されている。今日は昼と夜の二公演。マチネが無事に幕を降ろし、ソワレが幕を開けた。おかしい。聞こえてくるはずの台詞が聞こえてこない。代わりに聞こえてきたのはバウンダリーマイクすらも拾わぬ微かな寝息。彼、本番中の舞台の上で寝ているじゃない。
君はきっと、ひとりじゃない。これから先はどうかわからないけれど。六送会。そう呼ばれていたのは、深土小学校の本年度卒業生たちを見送る、学芸会のことである。4年B組は、授業で学んだ『スイミー』のお芝居を発表するため、練習に励んでいるはずだった。ある日、ある児童の母親が深土小学校を訪ね、訴える。「先生、どうしてうちの子がスイミーではないのですか?」不登校になる児童。度を超えた抗議に、休職に追い込まれる4
6人姉妹のとある一日。家庭や子ども、仕事を持つ生活の中で、それぞれの価値観がぶつかったり、励まし合ったり……。女6人、この姉妹は仲が良いのか悪いのか?個性あふれるキャストでお送りする、20代から40代の6人姉妹の赤裸々ドタバタ物語。
「空気読めないっていけないことなの!?」……相手の仕草や状況、雰囲気から気持ちを汲み取れず、言葉にしなければ意図している事を全く理解できないアスペルガー症候群の人達が、人間の機微に敏感でなくてはならない演劇をする事になった!試行錯誤しながらも、彼らの行き着く先には幸せがあるのか?
昭和8年。日本の女子スポーツは発展途上。「女が人前で足を出すとは何事か!」と才能ある選手が出ても世論がその芽を摘む有様。そんな時代、日本初の女子体育高等師範学校が設立される。100m走で日本記録を出した早乙女撫子もその学校に入ることになった。撫子にとって、学校生活は刺激的で発見の連続。女子スポーツを取り巻くあらゆるものを経験しながら、撫子は自分にとってスポーツとは何か問いながら成長して行く。
アマヤドリ活動休止前最終公演となる本作品。『写真撮影』という日常にありふれた行為をモチーフに、日本人の生活様式を過去・現在・未来を行き来しつつ主宰の実体験をベースに描いた四世代に渡る家族の物語。家族の形を世代を超えた対話によって浮かび上がらせてあらためて観客に問いかける作品。
独り暮らしの老女「ハルさん」は70歳。「イッコ」は小学5年の女の子。好きな人の名前が同じ「新一郎」という共通点を発見して仲良くなったが、少女と老女の意外な事実もまた明らかに……。イッコは学校にほとんど行かず、拒食症になっていること。ハルさんは末期ガンで余命幾ばくもなく、断食して死のうと思っていること。二人には「食べない」という共通点もあったのだった……。 死をどう受け入れるのか? 孤独とどう向き
芸術家の価値とは何でしょうか?一体何の為の創作活動なのでしょうか?私は制作の価値について考えた。めまぐるしく移りゆく現実の前に虚構の物語というものが必要であるか否か……。