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(フライヤーより)歌のお姉さん、体操のお兄さんによる楽しいつどいや、「ロバの音楽座」によるショーなどが3階青山円形劇場に大集合!!
カフカの生誕地プラハで開催された「カフカ国際演劇祭89」で上演。チェコ民主化により発禁だったカフカが解禁された記念すべきイベントだった。カフカの「城/巣穴」を原作に、1幕「土地測量師」、2幕は「城」に登場する二人の女性「フェリーダとアマリア」、そして3幕に「視座」と3つの角度から、カフカの世界が呼び起こす断絶や権力、関係の寄生性等を独自の視点で視覚的演劇的に抽出し、カフカ文学への新たな入口を提示し
ナイロン100℃ SIDE SESSION SPECIAL
ドイツの放送作家、ギュンター・アイヒによって1950年代に書かれたオムニバス放送劇『夢』。その中から舞台用にアレンジ可能と見なした3編を選び、オリジナルで書き下ろした3編を加えて上演。何十年も止まらない列車に閉じ込められて暮らしている家族の話『列車』、ある三流小説家が死の世界を経験する『死』など、6話6様の悪夢が繰り広げられる。「ナイロン100℃」史上初めての、笑いが一切ない作品。
(フライヤーより抜粋)さつき荘は古い。何人もの住人が入れ替り立ち替わり、七つの部屋を通りすぎていった。学生、サラリーマン、新聞配達員、浪人、占い師、片目の運転手、手品師、宗教屋、世間のダニ、酒屋の店員、花屋の店員、プータロー、等々……そして今、九月。さつき荘には、六人の男達が住んでいる。
【Story】「風景画」は、ある場所に俳優と観客が参加する三次元の絵画です。「風景画」は、幾何学的風景論です。「風景画」は、身体的風景論です。【Note】維新派は、野外に仮設の劇場を建て、膨大な量の美術装置を使って多くの公演をしていましたが、「風景画」では、大がかりな劇場や装置は作らず、俳優の身体のみで深く風景に関わることをテーマにしました。「風景画」の最初の舞台となったのは、犬島の、現在は使われ
辛くも全滅を免れた「東北バナナン軍団」の臨時幕営では、男たちが飢えに苦しんでいた。戦闘よりもむしろ飢餓で倒れていく仲間たちを救うべく、男は生き残りをかけた東北特産フルーツの生存戦略に身を投じていく…。
ヒエラルキーのない関係性で実験的な創作に臨むドイツの女性パフォーマンス集団、She She Popは、ベルリンの壁によって東西にそれぞれ分かたれて育った女性たちや、メンバーの実母など、さまざまな人々とその人生の物語を舞台の上に招き入れてきた。思春期の少年少女たちの悲劇を描いたフランク・ヴェデキントの戯曲『春のめざめ』と、強烈な性描写で議論を巻き起こしたE.L.ジェームズのベストセラー官能小説『フィ
秋田県藤里町に長く伝わる郷土芸能「獅子踊り」と「駒踊り」を秋田市で上演。
若手バレエダンサーを中心とした著名ガラ公演の第8回。第8回目は「プティパ175」と題し、古典バレエで大きな功績を遺した振付家マリウス・プティパの生誕175周年を記念した公演となった。プティパはフランスに生まれ、ロシアで活躍し、古典バレエの基礎と形式を築いた偉大な振付家である。上演された作品はすべてマリウス・プティパ振付であり、『ライモンダ』、『エスメラルダ』、『バヤデルカ』、『騎兵隊の休息』、『ハ
(フライヤーより)キミならどのあかずきんにする?
室町時代、お家騒動にまきこまれる絵師の狩野元信と、彼を慕う遊女のみや。元信と結ばれず、死んだみやは、香を焚きしめた元信の部屋に、幽霊として戻ってくる。二人の恋愛を軸に、芸術と政治の相克が浮かびあがる。現在は歌舞伎や文楽でさえ行なわれていない、近松門左衛門原作の全編を一挙上演。
ひな壇状の空間。縄跳びやダンスなど女子高生たちが思い思いに遊び、そこに時報音、胎児の超音波画像、鳥のさえずりなどが重なっていく。平田オリザの戯曲「転校生」を、マルチクリエイター・飴屋法水は、「本物の女子高生を演者にする」リアルと、「時空を超越した空間で演じる」フィクションの両面から立ち上げた。女子高生の日常に風穴を開けるのは、転校生を名乗る初老の女性。他愛もないお喋りの合間に、社会の不平等と不条理
「私は東京生まれです」「2020年のオリンピックを歓迎します」「今年セックスをしていない人」…。「はい」か「いいえ」か、さまざまな問いかけに応えて舞台上を移動し、時には自らの経験や考えをマイクの前で語るのは、東京都の人口統計(国籍、年齢、性別、居住区、世帯構成)を反映した100人の市民。 23区を「代表」 する彼らが劇場空間に描き出した「トーキョー」は、 この都市の標準的な姿か、演じられたイメージ
AI・HALL中学高校演劇フェスティバル特別企画
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罪を犯した女の一生を辿る、滑稽ながら切ない怪作。現在活動休止中のガレキの太鼓が、「女だらけの人間賛歌」と銘打って行った。旗揚げ2年目で、口コミサイト全国4位に躍進した代表作の、再演。アゴラ劇場の前を、キャンセル待ちが長い列を作った。肩を震わせ泣いたあの子の、人生の物語ひざまずいて許しを乞えば、どこから始められるだろう私が何かをやったとて、誰に関係なんぞあるあなたが何かをやったとて、私の目には入らな
若手バレエダンサーを中心としたガラ公演の第15回目である。公演の副題は「ラストコンサート」。1986年から毎年開催されてきた青山バレエフェスティバルは、第15回でいったん終止符を打つこととなった。そもそも国際的バレエコンクールで入賞を果たした若手バレエダンサーを中心としたフェスティバルであり、古典作品からの抜粋上演が多かったが、回を重ねていくうちに創作作品の上演も増え、また海外からのコンテンポラリ
坂口修一リーディング公演
悪役レスラーの父親と、そんな父がどうしても好きになれない息子が衝突を繰り返しながらも、やがて本当の絆を結ぶまでを描く、中島らもの名作短編小説を演出・岩崎正裕、俳優・坂口修一によりリーディング公演として上演。プロレス好きの教師が、国語の授業で中島らもの「お父さんのバックドロップ」を読み上げる。合間に思わずプロレス豆知識が飛び出し、授業はたびたび中断する。とある生徒との確執のあった教師は、朗読を通して
個人史と政治の関わりを独自の演劇的アプローチで掬い上げ、タイ演劇界でいまもっとも注目されている若手演出家ウィチャヤ・アータマート。本作はクンステン・フェスティバル・デザールや、ウィーン芸術週間をはじめとした多くの有力国際フェスティバルに招聘されるなど、高い評価をあつめる話題作だ。舞台はバンコクの小さなキッチン。登場する姉弟は毎年5月のある日をこのキッチンで一緒に過ごし、料理をしながら亡くなった父親
あらすじ:「ここじゃない、どこかに、オレたちの生きる場所がある!」三匹のネズミたちが大学病院の実験室から逃げ出した。そして、ちょっと元気のない少年元気との出会い。ある日、ネズミたちはふと考えた。「なんとかなるさ」を「なんとかしなくちゃ」に変えよう!それは、少年元気へのメッセージでもある。少年元気と三匹のネズミたちの珍騒動。
1989年10月第3回青山演劇フェスティバルにて初演された作品のアンコール公演。当時まだ大阪を本拠地にしていた「劇団☆新感線」が大きく躍進する契機となった作品である。
ボルボ社製トラックの荷台に乗り込んで体験する「荷物目線」の東京−横浜ツアー。埠頭で積み込みを待つトラックたち、海を挟んだ対岸に見える工場の影、流通センターで働く人々の姿……初めて見る風景に観客たちは感嘆の声をあげる。突如現れカーチェイスを仕掛けてくるデコトラ「芸術丸」や、路上で歌うブラジル人女性歌手など、フィクショナルな要素も交えた奔放さの一方で、車内では世界各国の道路事情や日本の運輸政策に関する
(フライヤーより)ラジオ放送全盛期。ひとつの番組が終わりを告げた。愛する人との別れがあった。赤裸々な人間模様が交差するラジオ・ブースでDJ古舘伊知郎のONとOFFがスパークする。「音楽を聴いて人が涙するように、語りで時代の哀しみを伝えたい」そんな想いを込めた、古舘伊知郎Talking Blues第4弾!既存のライブ・エンタテイメントの枠を超え、かつて誰も創り得なかった劇的空間が現出する。
NYLON 100℃ 9th SESSION ノンストップサクセスストーリー
舞台上にゾロゾロと現れるのは、普段着の男女28人。誰もが一度は耳にしたことのあるポップソングをバックに黙々と身体を動かす彼らに、年齢や職業、 ダンスの経験をはじめ、特別な共通点はない。舞台手前でDJ役を務めるスタッフが突如舞台にあがり<プライベート·ダンサー>にのせて見事なダンスを披露したり、<ばら色の人生>では場内の照明がすべてピンクになったり……歌詞にあわせたペタな振付や演出に、観客は笑い、感
(フライヤーより抜粋)今回の作品は昨年の公演で好評を博した沈黙劇「生長する」と「ニヤヒヤ」をドッキング、再構築した改訂版。長い沈黙と美しい音楽とひと握りのことばによってつくりだされる不思議なイメージに満ちた物語世界。
「3.11以後の生活」を捉えるため、宮沢童夫が引いた補助線は「1986年の東京」だった。アイドル歌手の飛び降り自殺が盛んに報道され、チェルノブイリ原発事故が世界を震憾させた年の夏、屋上でビンゴゲームに興じる人々の姿は享楽的なようで、どこか乾いた虚無感をも漂わせる。その様子を眺めるのは、「欠落の女」「忘却の灯台守」、そして2011年に生きる映画学校の生徒たち。彼らの視線、撮影された映像をたどりつつ、
KYOTO EXPERIMENT初の公募プロジェクトで選出され、2年にわたりリサーチと制作に取り組んできた、松本奈々子と西本健吾によるパフォーマンス・ユニット「チーム・チープロ」。2021年にリサーチを開始したふたりが最初に掲げたテーマは「ワルツ」だった。コロナ禍で「接触」が憚られるなか、京都に存在したとされるダンス芸妓の史実を起点に戦前京都と現代と接続し、想像上の他者とワルツを踊る作品を発表。続
【Story】<路地>を、管理されることのない空間、不合理なるものの迷宮、過去への奥行き、そしてアジアへの通路として捉え、俳優たちが路地を構成し、路地を歩行します。M1 「標本迷路」 M2 「地図」 M3 「可笑シテタマラン」 M4 「海図」 M5 「おかえり」 M6 「鍍金工」 M7 「金魚」 M8 「地球は回る、眼が回る」 M9 「木製機械」 M10 「かか・とこ」【Note
柿喰う客フェスティバル2017
食べ物を探して森にやってきた兄(北村まりこ)と妹(永田紗茅)。ひょんなことから、人さらい(守谷勇人)に攫われ、妹はお金持ち(村松洸希)の家へ、兄はサーカス団に売られてしまう。兄は有名になり妹を迎えに行くために、サーカス団で芸を磨くことを決め、団長(とよだ恭兵)や見世物女(七味まゆ味)に教えを乞う。しかし、その大人気のサーカス団の秘密は…!?
青年団プロデュース公演 vol.8
劇作家・演出家の松田正隆が、自身の生まれ育った長崎を舞台に描き、1998年第50回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞した代表作。演出・平田オリザとのコンビは、前年、第5回読売演劇大賞最優秀作品賞を受賞した『月の岬』に次ぐ2作めとなる。職を無くし妻に家出される主人公と、彼を取り巻く人々の心情を、何気ない会話から細やかに映し出す。
(フライヤーより)韓日ダンスフェスティバル(ソウル)日韓の若い才能たちの出会い「日韓ダンスコンタクト」日韓ダンス交流と韓国ダンスのいま「コリア ダンス ミュージアム」
遊園地再生事業団#6
大学の片隅に、校舎に囲まれた小さな庭がある。もう30年のあいだ、その場所のことを<知覚の庭>と学生たちは呼んだ。いまでは誰もその意味を知らず、庭のことをそう呼ぶのだと知る者さえ少なかった。荒れ果て、誰も近寄らず、ただの隙間のような場所でしかないが、かつてこの庭で、Marijuanaが育てられた。庭の土が、良質のMarijuanaを育てたという。1995年の秋。6人の学生が再び庭の土に種を蒔く。土は
久門剛史のインスタレーションは、音や立体、光と影によって詩的情景を緻密に構成し、観るものの身体感覚へダイレクトに介入する。その空間は劇場的とも評され、また、2016年にはKYOTO EXPERIMENTで初演されたチェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』の舞台美術と音を担当するなど、徐々に舞台芸術への関心を高めてきた。その久門が、ロームシアター京都のサウスホールという、自身にとってかつてないスケー
(フライヤーより)脚本は映画『月の輝く夜に』でアカデミー脚本賞を受賞したJ・P・シャンリィ、演出は映画『ロックよ、静かに流れよ』等の作品で邦画界期待の星の長崎俊一(舞台初演出)。この異色の取り合わせに、ご存じ平田満と話題の美保純が挑戦します。都会の片隅の小さなバーで、男と女が獣のように出会った。「作者ノート:彼らの気性は激しいがぼろぼろに傷ついている。口べただが話をしたくて堪らない。危険だがもろい
英国演劇界の寵児、サラ·ケインの遺稿となった戯曲を飴屋法水が演出、ホーメイ (喉歌)歌手の山川冬樹と様々な国籍の職業俳優ではない役者と共に作り上げた舞台。劇場の観客席が今作の舞台。それと対面して、いつもの舞台上には特設の観客席が用意されており、ダークな照明の中、舞台前面では血のように赤いプールの水が滑らかに光っている。11人の役者たちはケインの詩のように書き連ねられた言葉を、彼らにとっての外国語=
東日本大震災と福島の原発事故を経て、「わたしたちの声」とはなにか、どうすればそれを聞くことができるのかという問いに、演劇的な応答が示された作品。改造保冷車の荷台に映像鑑賞ブースが設けられ、東京と福島の中学生へのインタビューが一人一枚のDVDになって並んでいる。観客は自由に鑑賞し、最後に自分自身も投票する。それぞれの戸惑いと葛藤を写し取った記録は、まだ見ぬ未来へむけたアーカイブとなった。
美術家としてのバックグラウンドから出発し、インスタレーション・パフォーマンスという形式によって独自の領域を拓く田中奈緒子。2011年から取り組む「影の三部作」最終章の『Unverinnerlicht – 内在しない光』を昨年のKYOTO EXPERIMENTで上演、光と影による静謐で強靭な表現で観客をひきこんだ。同じくドイツを拠点とするパフォーマー/コレオグラファーの芝原淑恵をコラボレーターに迎え
身体の中は小宇宙であるとよく言う。 エネルギー体である 私、あなた、社会、自 然、宇宙、 電子エネルギーにより、 それぞれが細かく振動する事 によって共鳴し合って世界の バランスを保っている。 そういった物理学の観点からモーション (動き)とエモーション(感情)、そしてそれ が世界にまで共鳴して 行くことを提示し た作品。かつて生きていた人、生活。肉 体は滅びても エネルギー体は滅びずにこ の地球
映像、演劇、パフォーマンスなど、領域横断的に自在な活動を展開するチョイ・カファイは、過去2度にわたるKYOTO EXPERIMENTへの参加で上演されたいずれの作品でも、ダンスという表現への深い敬慕と入念なリサーチ、そして独自のアプローチを見せてきた。テクノロジーをある種“誤用”しながら、ダンス史におけるレジェンドたちの振付を復元した『Notion: Dance Fiction』。アジアを拠点に活
遠藤が20数名のダンサー達と作り上げた作品。学校校長であった遠藤の父親が、焼けた校舎の跡に芽吹いたメタセコイアに勇気づけられ、絶望の淵から学校の再興を決意した体験から、自然が人間にとって如何に大切かをテーマに作品制作に取り組んだ。
電話や鍋など、さまざまな日用品=遺品を土で固められた舞台(能舞台を模している)に置き、語りはじめる五人の女優たち。彼女らは、イェリネクのテキストを舞台上で「伝達」しようとしているのだが、その試みは互いの突っ込みや言葉の奪い合いにより、うまく運ばない。「上演は失敗する」という印象的なフレーズと、不自由そうに発せられる「ペンも紙も失ったので、言葉を記録し、それを誰かに伝えるためには、ただこうして、頭で
ドキュメンタリー
ぽつねんとある自動販売機を止まり木のようにして集まる3人の人物の雑談から始まり、缶ジュースの風味が浸透するように境目なく様々な記憶や風景が現れては消え、過去や未来、人物がいるのかいないのかさえ揺蕩っていく。その中自動販売機だけは形を変えず、その場に存在し続ける。監視者なのか、なにかを促すモノリスなのか。感覚的なようで、人物たちの感情は一連のストーリーとして確かに繋がってるニュースタンダード会話劇。
アルトー作『チェンチ一族』のリーディング公演から2年がかりで取り組んできたアルトーのテキストをついに舞台化。リーディング劇『追伸』で用いた「神の裁きと訣別するため」に、アルトー自身が友人や恋人に宛てて書いた手紙をコラージュして構成した。この年から始まった京都国際舞台芸術祭KYOTO EXPERIMENTの参加作品として上演、フェスティバル/トーキョーへも本作で初参加となった。
若手バレエダンサーを中心としたガラ公演の14回目。第14回の副題は「バレエと変容」であり、「20世紀のバレエ・ダンスの流れから次の世紀のありようを探り」、「クラシックバレエからコンテンポラリーダンスまでその表現の違いを探る」ことが目的だ。第1部の「99ローザンヌ国際バレエコンクール受賞者によるバリエーション」では、98年、99年に開催されたローザンヌ国際バレエコンクールの上位入賞者が古典作品を踊っ
海と横丁の物語故郷の、海辺の町を舞台に、様々な人間模様や風景が描かれる。小池が故郷をモチーフに制作。日本という風土を強く意識させる。世界中の一流劇場で公演し続けてきた作品。演出家小池博史の原風景である、60年代の海辺の町をモチーフとした作品。 「船」とはその町と外の世界を結ぶもの、外の世界への出口でもある。ノスタル ジーに満ちた海辺の町の光景を詩情を湛えて描きつつ、人間の内にある素朴 で満たされな
3度の岸田國士戯曲賞にノミネートされるなど、自身の劇言語を確立し、文学界からも注目を集める神里雄大は、ペルー共和国に生まれ神奈川で育った自身のアイデンティティに向きあいながら、政治や社会状況を取りこんだ作品を発表している。本作では、昨年10月からアルゼンチン・ブエノスアイレスに滞在している神里が、近年の各地での取材をもとに構成する独自の創作スタイルをさらに発展させた戯曲を執筆。現地で出演者を見出し
日本人ダンサーとインドネシア人ダンサーが、互いの文化、歴史、宗教の違いをぶつけ合う中で、互いの身体の奥に眠るアジア特有のリズムを発見する。
松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ
3歳から20歳までバレエを踊り、その後自らの身体のあり方を問い直してきたパフォーマーの松本奈々子、主にドラマトゥルクの役割を担う西本健吾が共同で演出を行う「チーム・チープロ」は、綿密なリサーチを積み重ね、“身体”を媒介に個人の記憶と集団の記憶を再構築するパフォーマンスユニット。KYOTO EXPERIMENT初の公募プロジェクトで選出され、2021年・2022年の2年間にわたり京都芸術センターで制
(フライヤーより)古き良きテレビ創成時代からお下劣バラエティ全盛時代へ、あるいは地上波全盛時代から多チャンネル化、メディアミックスの時代へ。テレビとは何か? テレビはどこから来てどこへ向かうのか? テレビ時代の申し子古舘伊知郎が、生みの親であるテレビと真っ向から勝負を挑み、その夢と現実を描きます。独特の話芸と毒舌と笑い。”語りを通して人間の哀しみを伝えたい”という恒例のトーキング・ブルース第5弾。
この作品はコロナ禍で創作され「これぞソーシャル・ティスタンス・パフォーマンス!」と世界中で報じられた。特徴的なのは、舞台美術と一体化した「客席」である。三方を壁で囲われ、壁に空けられた穴から中をのぞき見るのだ。通常の舞台芸術でも、観客は暗い客席から一方的に明るい舞台を見ているわけで、いわば「のぞき」とは舞台芸術の本質なのである。カンパニーを主宰する浅井信好は多彩な顔を持っている。ヒップホップ出身で
(フライヤーより)10年前、つまり西暦2000年の12月24日に発生した、〈メリークリスマス〉という名前のウイルスによってトーキョーと呼ばれるアジアの一都市は破壊的な打撃を受ける。町は廃墟と化した。廃墟の象徴ともいうべき99階の建物もまた、いまでは使う者もいないまま、あたかも巨大なジャンクとして屹立している。廊下から、その扉をノックすれば、向こうからもノックする者がいるという。扉を開けて向こうから
(フライヤーより)一つの役を「動く俳優」と「語る俳優」が二人一役で演じるというユニークなスタイルで人間の喜怒哀楽をダイナミックに表現して脚光を浴びるク・ナウカ。この方法によって、日常を越えた巨大なスケールの人物を舞台に描くことが可能になりました。今回の作品は93年に利賀フェスや韓国でも上演され、代表作と言われてきた『サロメ』の完全新演出版。5年前、青山演劇フェスで旗揚げしたク・ナウカの、満を持して
まちなかパフォーマンスシリーズ
「公開生放送」で送る、路面電車の旅カフェ店内での通信販売演劇『ふくちゃんねる』、劇場ロビーでのビンゴ形式の演劇公演『アドベンチャーBINGO‼』など、ユニークかつユーモアあふれる企画で観客を巻き込む俳優・福田毅。その新作は、東京さくらトラム(都電荒川線)の車内から生放送する「ラジオ番組」です。早稲田から三ノ輪橋までの約60分、パーソナリティに扮した福田が乗客とコミュニケートしつつ、ウィットに富むプ
(フライヤーより)北村想が書き下ろし、洞口ゆずるが演出する話題のプロデュース公演小劇場の実力派が競演する”砂漠と隕石のラブ・ストーリー”
若手バレエダンサーを中心とした著名ガラ公演の第4回目。4回目の開催となり、本バレエフェスティバルは東京の夏の風物詩としてバレエ関係者の間で定着した。1989年1月末に第17回ローザンヌ国際バレエコンクールが青山劇場で開催されたことを受け、第4回青山バレエフェスティバルでは同コンクール上位入賞者6名が「1989年ローザンヌ国際バレエコンクール開催記念特別プログラム」を踊った。1989年のローザンヌ国
青年団プロデュース公演
(フライヤーより)別役実氏の名作『マッチ売りの少女』を大胆に翻案し、さらに『AとBと一人の女』『象』といった初期作品群から、台詞を多数引用、コラージュする形で作品を作り上げる。初老の夫婦の食卓を、次々と訪れるマッチ売りの少女たち。その少女たちと、夫婦を中心とした街の人々との奇妙なやりとりを軸に、市民社会の脆弱さが浮かび上がってくる。
Eラーニング(株式会社 流)
⑤ 衣裳・ヘアメイク衣裳編①ではオレゴン・シェイクスピア・フェスティバルの衣装部門を統括するメリリー・フォード・バレラ氏が大規模リージョナル・シアターにおける衣裳製作の過程やチーム・メンバー、そしてゲストデザイナーとの働き方などについて解説。衣裳編②ではマイアミ大学演劇学科で衣裳デザインの准教授を務めながら、フリーランスとしても活動するスキナー道子氏が衣裳デザイナーの仕事や繊細さが求められる役者と
AsiaTOPAフェスティバル
「ButohBAR番狂わせ」第二弾の本作品はASIA TOPAフェスティバルで上演され、初日前、完売し大好評を博した。メルボルン在住の舞踏アーティストゆみうみうまれ演出のもと、舞踏、演劇、歌、キャバレエ、ビジュアルアートが融合し、屋内外の儀式的かつキテレツなパフォーマンスで「美しくも不完全な番狂わせ」をテーマとしている。静けさとカオスが行き来する中、舞踏マスター・竹之内淳志氏、音楽家小宮広子氏を含
(フライヤーより抜粋)何ということはない、日常生活のすきまから、ちょっとだけ顔をだしているおもろくて、やがて哀しき出来事達。そんな、誰もが持っている些細な出来事達を、紡いで、紡いで、少~しだけお見せします。子供部屋に生まれ、育ち、いろいろあってやがて最後に見るものは…。
わたしたちは、そろっている。
振付・演出家の白神ももこのもと、独自の作品世界を展開するモモンガ・コンプレックスによる作品。白神は新型コロナウイルス感染症対策で外出自粛期間中、会えない人や行けなくなった場所への思いを馳せるなか「個と全体」について考えるようになった。そしてこの体験をさまざまな情景から一人の人間を浮かび上がらせる「伊勢物語」の構造に重ね、上演という集団で取り組む表現形態のなかで、どのように個の存在を放言し連ねていく