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(チラシより)いつだってずっと、もう何年も。どこか内側に在るシーンというシーンは、眼裏で目まぐるしくリフレインしている。最速のスピードを持って、脳内を駆けめぐる。あの季節の、あの湿度のなかを走りつづけている。もしくは、歩いている。校舎のなかを。休み時間、教室から教室へ。廊下を、歩いている。なんともない日々の眺め。しかし、その平穏さが一変する瞬間。いつのまにか忍びよっていた影に気づかずに、ある瞬間。
実在の人物である、文学者・医者のユダヤ系ポーランド人、ヤヌシュ・コルチャックの後半生を描く。第一次世界大戦後、ユダヤ系とポーランド系の孤児院を運営するコルチャック。その孤児院は、厳しい管理や強制ではなく、子ども達の自治を実践していた。子どもを一人の人間として尊重し、彼らの自治による世界を実現するという、革新的な彼の主張は、1989年に国連で制定された「子どもの権利条約」に生かされている。ナチスのユ
2008年の結成から日本の現代サーカス界を牽引してきたカンパニー・ながめくらしつ2016年上演作品。カンパニー主宰のジャグラー・目黒陽介が演出を務め、比類なきチェロ奏者・坂本弘道とゲストミュージシャンによる生演奏、美術家・カミイケタクヤの作品によって重層的に支えられた舞台空間で、高い技術を持つ9名の演者がジャグリング、エアリアル、ダンス、アクロバットほか多様な身体表現を以て、独創的でサイトスペシフ
芸者文化に着想を得たパフォーマンス作品。磨き上げられた踊りや唄で客人を楽しませる芸者は、職業としては日本各地から消えつつあると同時に、日本の接客や美意識を伝える存在と捉えられています。本作は、この一見あたりまえの「おもてなし」の演出を、俳優の身体を通し観察するこころみです。現役芸者への取材や芸事の稽古などを昨年秋より重ね、文化の継承、エンターテインメント・システムとヒエラルキー、身体的性別と性自認
人は出会いの刹那を繰り返す。海で出会う子どもと老人、新宿バッティングセンターで出会う若者たち、海に住む夫婦。人々の姿が地層のように重なり、時にすれ違う。本作はムニ『カメラ・ラブズ・ミー!』(2022年、こまばアゴラ劇場)で上演された作品です。
「ヘッダ・ガーブレル」を、三東瑠璃の演出・振り付けで立ち上げたコンテンポラリー・ダンス作品。三東自身がヘッダとして出演し、Co. Ruri Mitoのダンサー青柳万智子、安心院かな、金愛珠、斉藤稚紗冬がコロスで出演。さらに映像出演として森山未來、杉山剛志、中村あさき、宮河愛一郎が登場。
2018年夏。33歳、独身、彼女なし、アルコール中毒、元詐欺師前科一犯の“穴蔵の腐ったバナナ”は、マッチングアプリ・TSUN-TSUN(ツンツン)に友達を募る書き込みをする。出会い系サクラのバイトをしていた“男”は、釣られているとわかりながら課金してきたバナナに興味を持ち、彼と会ってみることにする。「人を救いたいんだ・・・」と言うバナナと男はいつしか、僕/俺「ら」になり、探偵の真似事をしながら諸悪
音楽でつづる文学
鎌倉時代に成立し、平家の栄華と没落を描いた軍記物語「平家物語」は、後世の芸術にも様々な影響を与えました。香川県高松市の屋島を舞台として、那須与一の扇の的討ちも大変有名な伝説として様々な形で残されました。平家琵琶と地歌箏曲、そして福岡県で現在唯一伝承されている幸若舞を取り上げます。幸若舞は織田信長が好んで舞ったといわれています。今回は「扇の的」と共に、とりわけ名前が知られている「敦盛」を上演します。
―これは井上ひさしが愛してやまない日本語に、不思議でかわいらしく、輝くような生命を与えてくれた、ある岩手花巻人の評伝劇―詩人にして童話作家、宗教家で音楽家、科学者で農業技師、土壌改良家で造園技師、教師で社会運動家。しなやかで堅固な信念を持ち、夭逝した宮沢賢治。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」そう信じた宮沢賢治が夢見たイーハトーボは果てしなく遠かった。
ハイスクールプロデュースとは、関西で活躍する演劇人と現役高校生たちが一緒に芝居を創りあげる企画です。今回は、第10回OMS戯曲賞最終候補に選ばれるなど、注目を集める若手作家・横山拓也の新作書き下し作品を上演します。
さいたまゴールド・シアター第7回公演
舞台は、東日本大震災から6年が経った福島。避難指示区域では、イノシシが我がもの顔に出没するようになっていた。添田家では、ある日長男の学がイノシシに襲われた。それを助けたのが復興本社に勤めるハタヤマ。学の父・添田良二はハタヤマに感謝したいと家に招き、ハタヤマの固辞にもかかわらず、妻のパエリアをご馳走することに拘る。一方、線路が見える丘の上には、毎日、若い男がやってきていた。線路も駅も流されたあの日、
軍国少女であり、軍国の小学校教師であった自分への深い憤りと懺悔。「教育」への限りない理想と情熱を、北森竜太の青春に託して書き上げた三浦綾子の傑作長編小説「銃口」を舞台化。2007年まで全国巡演を続けるとともに、2005年には韓国国内14か所24回の巡演も行った。
おそらくは誰もが子どもの頃、一度は遊んだことがあるシーソー。その語源はsee「見る、反復する」+saw「のこぎり、前後に動かす」らしいですが、この"see"と"saw"という現在と過去の単語がひとつになったこの言葉からは、さまざまな記憶のイメージが浮かんできます。ギッタン、バッコンと上になったり、下になったりを繰り返しながら、それぞれの高さで、僕らはそこからなにを見ていたのでしょうか?そしてそのと
あかちゃんとおとなのための演劇・ベイビーシアター
蛇口からしたたる一筋の水をめぐって、無言の人間がさまざまな姿態を見せる。1980年代の伝説的舞台、太田省吾の戯曲『水の駅』を、あかちゃんと大人のための演劇(ベイビーシアター)として全く新しい演出で上演します。極端に遅い動作で一瞬の生を切り取る手法を生かし、流浪する人間の姿を確かに描いた本戯曲。その中の人間の生の描写をあかちゃんと一緒に見ようという試みです。
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一般的に「勧進帳」は、弁慶が命がけで主である義経を守る姿に心を打たれた富樫が、ついに関を通過させることが物語の核となり、そこに至るまでの三人の攻防が眼目とされています。木ノ下歌舞伎では、原作でいわゆる脇役として扱われる関所の番人や義経の家来たちにも光を当て、彼らがそれぞれの境界に戸惑いながら生きる姿や、境界を超えようとして起きる摩擦を描き、弁慶・義経・富樫のドラマからすべての人間の<境界をめぐる物
『アンティゴネ』は、2017年、世界最高峰の演劇の祭典「アヴィニョン演劇祭」からの招聘を受け製作された。静岡市・駿府城公園でのプレ公演を経て、客席数約2,000のメイン会場「アヴィニョン法王庁中庭」で演劇祭のオープニング作品として上演。人を善悪に二分しない王女アンティゴネの思想に、「死ねばみな仏」という日本人の死生観を重ねた独創的な演出、舞台全面に水が張られた装置や、高さ30mの法王庁の壁面に俳優
三好十郎が1950年に発表した大戦前後の日本を舞台にした『殺意(ストリップショウ)』。ナイトクラブのステージで、引退ショウを行うソロダンサー緑川美沙。南の小さな城下町に生まれ、愛国運動、敗戦を経て東京でダンサーになるまでの半生に秘められた激情を、自身最後のステージで語り出す。
山道を走る、ピンク色の車。その車には若い夫婦が乗っていた。ワガママな妻と“いないもの”とされている夫。彼らはヒッチハイクをしていた一人の女を興味本位で車に乗せる。そして意気投合した女と妻は、あたらしい生活を始めるための旅に出るが、二人の旅先には“いないはず”の夫がいた。
「H」は、human(人間)、hope(希望)、homeless(ホームレス)、hurt(痛み)の意。コロナ禍において増加する貧困生活者や苦しみを抱えた方達が心身の豊かさと希望を取り戻すきっかけとなることを願い、横浜・東京の公共空間を主とした8会場で、新人Hソケリッサ!新作ダンスパフォーマンス『ヒニヒリズム/今度会ったらロクでもない奴らと仲良くなりてえ・・』、映画上映、トーク、WS、展示を展開。
[Story]伊勢をめざす旅に出た少年ワタル。奈良の山中で道に迷ったワタルは、不思議な生き物を見ます。導かれるままに辿りついた曽爾村で、ハルという腕白な子どもに出会います。2人は、村祭りで一緒に獅子舞を見たり、雨の中、秘密の洞窟を探検したり、ワタルは迷子になっていたことも忘れ、ハルと村中を巡ります。彼らを傍で静かに見つめているのは、成長して曽爾村を再び訪れたワタルです。成長した彼もまた人生の岐路に
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急逝した月蝕歌劇団主宰の劇作家:高取英メモリアル第一弾として2020年8月、コロナ禍の中、スズナリで客席を半分にして上演された。『寺山修司―過激なる疾走―』は、寺山修司に捧げる鎮魂歌でもある。高取は,大胆にもテラヤマの生涯と劇の中の「母子の物語」をコラージュして「父=国家不在」のモノガタリを創り上げた。音楽はJ・Aシーザー、振付は神在ひろみ、主演は伊藤弘子、山丸莉菜、月蝕歌劇団の白永歩美など女優陣
舞台上にゾロゾロと現れるのは、普段着の男女28人。誰もが一度は耳にしたことのあるポップソングをバックに黙々と身体を動かす彼らに、年齢や職業、 ダンスの経験をはじめ、特別な共通点はない。舞台手前でDJ役を務めるスタッフが突如舞台にあがり<プライベート·ダンサー>にのせて見事なダンスを披露したり、<ばら色の人生>では場内の照明がすべてピンクになったり……歌詞にあわせたペタな振付や演出に、観客は笑い、感
【あらすじ】近未来。ある北の町が高レベル核廃棄物の最終処分場となった。無害になるまで10万年。核のゴミを誰が見届けるのか?そして誕生する原子力ロボット「むつ」。むつは人類を救えるのか?【解説】第52回岸田戯曲賞にノミネートされた渡辺源四郎商店版と第60回全国高等学校演劇大会優秀賞の青森中央高校版をベースに改変された。日本最大の演劇祭フェスティバル/トーキョー14の招聘公演。渡辺源四郎商店+客演+青
「人生は芝居か?芝居こそが人生か?」ジャン・ルノワールの名作映画に着想を得た、絢爛豪華絵巻!「わからないわ、舞台でも人生でも、懸命に生きているのに。舞台だとうまくいくのに、人生だと愛するものを壊してしまう。どちらに真実があるの?どこまでが舞台で、どこからが人生?」主人公のカミーラはそう呟く。人生は舞台の上か下か。境目もない現実の世界で、求める幸せはどんな形をしているのだろう?山野を揺るがす打楽器の
9つのエリアで展開された豊岡演劇祭2022。劇場に限らず、魅力的なロケーションで実施された演目の数々には、多様な観客・演者が参加した。大小様々な演目は、熱気・笑い・悲しみ・静寂・興奮・活力・喜び・戸惑いなど、様々な情動を誘発する。映像作品『豊岡演劇祭2022の記録』は、その一部を映像によって追体験させてくれる、短い記録である。
2007年に多重録音を発想の起点として創作された、柴幸男初期の短編演劇『反復かつ連続』。ひとりの俳優が演技を重ねることである家族の朝の風景を描き出す。13年振りの再創作、そして劇団初のオンライン演劇作品として上演された。
おもむろにビニールプールを膨らませる15人の俳優。ビニールプールが完成すると、その中に胎児のように丸まって、眠りにつく。音楽が始まると、彼らは、それぞれの島に住む人々や、島の魂、妻に逃げられた若いパパや、ロンドンに居るイギリス人、ビニールプールの検品をしているアルバイトなど、様々な人物になっていく。リップシンクによる、コンセプトアルバム的な音楽シーンの連続で送る、人類の孤独を慈しむ音楽劇。
(フライヤーより抜粋)「場所と思い出」「雰囲気のある死体」といった別役氏の戯曲を読んでは、あまりのくだらなさに何度も吹き出し、電車の中や図書館で恥ずかしい思いをしていた高校時代の私にとって、別役実という人は”ナンセンス・コメディの巨匠”でした。─ケラリーノ・サンドロヴィッチ
20年ほど前、雪山にUMAが出るという噂で、一躍有名になった尾白温泉町。その地で土産屋を営む阿波野家の次男正雄がスカウトされた。しれは禁煙、不幸続きだた阿波野家と町にとって明るいニュースとなるのか?15年前のあの日、なぜ町民はUMAを殺さなくてはならなかったのか?雪深い町で業深い人間たちが起こすとんでもない冬のお話。(喜劇です)
「俺が代」は、日本国憲法や、文部省(当時)による教科書『あたらしい憲法のはなし』、そして尾崎行雄、芦田均などの演説をテキストとして用いながら、日本国憲法の本質を浮かび上がらせ、憲法やこの社会についての問いを共有するソロパフォーマンス。これまで愛知県芸術劇場、京都芸術センター、Festival Temps D' Images Cluj などにおいて上演されてきたかもめマシーンの代表作です。憲法という
妊娠・出産をめぐる日本の現状は、明るくはない。少子高齢化に直面しているものの、「産み育てやすい」環境整備は遅々として進まず。一方で「産まない自由」に対する社会的圧力も未だやむことはない。この閉塞的な状況に【擬娩(ぎべん)】という、一風変わった習俗の再起動を通してアプローチをする、演出家 和田ながら。本作は和田の2019年初演作品を、今回が舞台作品への初参加となるメディアアーティスト やんツーをコラ
『ファッツァー』に続く地点×空間現代第2弾。ロシア・アヴァンギャルドを牽引した詩人マヤコフスキーが十月革命の一周年を祝うために書いたという戯曲『ミステリヤ・ブッフ』をサーカス小屋のアリーナを模した円形舞台で上演。音楽と言葉が、敵対し、鼓舞し合い、共闘する。野次がシュプレヒコールに変容し、時に歌となる。聖史劇を意味する「ミステリヤ」、笑劇を意味する「ブッフ」を全力で体現した、地点初の喜劇。
巨大カンパニーのビルに呼ばれた、ベンチャー企業の社員たち。もらったIDカードを首にぶら下げ、奥へ進むと、待っていたのは、重厚なゲート。襟を正しつつ、カードをかざしてゲートを開ければ、そこには上へと続く階段が。そして登った先には、2つ目のゲートが待ち受けていた。現れないCEO、現れ続けるフロア。クイズを解き、罰をくらい、ホットドッグを食べ、他社と出し抜きあい、あるいは協調しながら、ビルを登りつづける
映画『田園に死す』(1974年公開)は寺山修司の自伝的映画とよばれ「世界のテラヤマ」の名を決定付けた作品。「母殺し」、「家出」、「蛍火」、「恐山」など寺山劇世界(ワールド)の集大成が、ここにあり、終生こだわり続けた《記憶とは何か?》《私とは何か?》というテーマを提示している。2009年流山児祥:企画制作、天野天街:脚色・演出、J・Aシーザー:音楽で上演。スズナリ連日超満員札止めのロングラン公演とな
【Story】主人公の少女aは、夏休みの間、マンションの自分の部屋で一日中テレビばかり見て過ごしています。テレビを見ながらうたたねをしてしまった少女aの夢の中にもテレビのスポーツ番組やドラマ、ニュースの画像が現われます。舞台はこの少女の夢の世界から始まります。やがて目覚めた少女aは去年事故でなくなった弟のワタルの墓参りに出掛けます。弟の墓地は周りをビルに囲まれた小高い丘の都会にはちょっと珍しい場所
僕は、あくまで僕が行う演劇において、社会や未来や観客や人類に対しての「問い」を持つべきだという考えに取り憑かれて創作をしています。年齢や出身地なんか関係ない。運命や希望や絶望などとも関係ない。僕だけのオリジナルな、完全無欠かつ純粋無垢で邪悪で妖艶で現実的で蠱惑的で幻想的で残酷な「問い」を持つこと。かといってそれはさも「問い」らしくあらないこと。「問い」ぶらないこと。「問い」を生み出そうとか、そうい
世界一小さな舞台空間から発信する「超演劇」。演劇を再生させる圧倒的「事件」。これは発明なんだ今も誰かがあの屋根裏に立て籠もっているそう考えただけでもう一日生きてみようかと思うことができるそういう発明なんだ初演以降、国内外でのツアーを数多く実施。海外では、ニューヨーク・パリ・ローマ・ウィーン・シビウ・フランクフルト・ブカレスト・ピッツバーグ・マイアミ・ソフィア・ヤルタ・テルニ等で上演している。また、
2012年、チェルフィッチュと岡田利規は、また新たなそして重要な変化の局面を迎えることとなりました。2011年3月11日に起きた東日本大震災とその後の原発事故によって大きく変わってしまった日本の社会状況に影響を受け、変化した岡田自身の演劇に対する態度が、まぎれもなく本作品に反映されています。不吉な雲と、村が破壊するという噂。噂を信じるのか、信じないのか。状況に対して変化するのか、しないのか。「村」
東京都内にあるカトリック系私立女子中学校の会議室。そこに、集まる数人の男女。いじめ自殺死した子供の遺書に書かれていた、いじめ加害者の親たちである。それぞれ、年齢も、生活環境も、職業も違う親たちは、身勝手な事情から我が子を庇護する事に終始する。怒号飛び交う会議室。子供達のいじめを通して、それぞれの親たちの「顔」が浮き彫りになる。
―夏の空、高校生たちの星間飛行―時報を合図に、少女と星の一生を描いた『わが星』。その世界観を引き継ぎ、一般公募で選ばれた高校生キャスト&スタッフとままごと・柴幸男との共作により上演された『わたしの星』。火星への転校と、文化祭での発表をめぐる、高校生たちの1日を描く。
古川あんずは1991年にベルリンに移住し、1996年までブラウンシュヴァイク教育美術大学のパフォーミングアーツ学部で教鞭をとっていた。本作は、カフカの『変身』をベースに古川が学生達と創作した作品のダイジェスト版。タイトルの「Verwandlungsamt」は、『変身』の原題でもある「Die Verwandlung」と、事務局や管理局、役所などを表わす「Amt」から成る造語。
20代後半を迎える朝美、かのこ、ゆず、美緒は元高校演劇部であったことを共通点に、友人関係にある。ある日、顧問の先生の訃報と残された草稿が発見される。「わたしはことばそれ自体になりたかった」「欲望は見えなくされているだけだ」と書かれたそれは、完成された物語ではなく、未完成の言葉の集合体だった。4人は残された言葉を「聞く」ことからはじめようとする。
第15回小田島雄志翻訳戯曲賞受賞『月は夜をゆく子のために』に続くトランスレーション・マターズ上演プロジェクト第2弾!森鴎外の翻訳と現代語翻訳で織りなす“市民悲劇”
幡豆の田んぼ、オリエンタルシティ・香港を経て、全てのログが積み重なり、未知なるPOPが散りばめられる…圧倒的な存在感を放つ唯一無二のダンサー・振付家の辻本知彦と、表現の世界を自由自在に横断するダンサー・俳優の森山未來。そんな二人が 2010 年に立ち上げたパフォーマンスユニット「きゅうかくうし お」。『素晴らしい偶然をもとめて』(2010年)、『素晴らしい偶然をあつめて』(2017年)を経て、約2
小学4年生のよしおは、弱虫で、いつも気の強いお姉ちゃんにしかられ、いじめっ子にはやられっぱなし。ある日突然、テレビの時代劇を見ていたら、中から坂本龍馬が飛び出してきた!友達の中岡をさがして、よしおも一緒に大阪の町をかけまわる。劇を観た後、元気が湧いてくる、奇想天外時空超越大活劇。
九州の田舎町。建設業を営む「岡本一族」の繁栄から没落までの、昭和から平成へかけて激動の 10 年間を描き、地域住民の現実と、生きる意味とは何かを問う壮大な人間ドラマ。戦後の世の中を激しく生き抜いて来た一族の落ちぶれてゆく様は、まるで潮の満ち引きの水面のように、静かに、ひたひたと、上がっては、下がってゆく……。
海と横丁の物語故郷の、海辺の町を舞台に、様々な人間模様や風景が描かれる。小池が故郷をモチーフに制作。日本という風土を強く意識させる。世界中の一流劇場で公演し続けてきた作品。演出家小池博史の原風景である、60年代の海辺の町をモチーフとした作品。 「船」とはその町と外の世界を結ぶもの、外の世界への出口でもある。ノスタル ジーに満ちた海辺の町の光景を詩情を湛えて描きつつ、人間の内にある素朴 で満たされな
1954年民藝初演のアーサー・ミラーの傑作戯曲。1984年は滝沢修の新演出・主演で5度目の上演、文化庁移動芸術祭をふくむ全国公演を続け、翌年1月には東京でアンコール上演。
小泉は、あいちトリエンナーレからの委嘱を受け、アイスキュロス作のギリシャ悲劇『縛られたプロメテウス』を出発点に、VR技術を使った初の本格的演劇作品を制作した。未来を予見する能力をもちつつも、ゼウスから火を盗み、人間に与えた罪で永劫の苦しみに苛まれるプロメテウス。矛盾した存在であるプロメテウスは、人間の身体がもつ有限性と、それを乗り越えようとするテクノロジーの緊張関係として捉えることができる。 VR
次世代に、そして全世界に語り継ぎたい明日への再生の物語「人類史の折り返し地点」 ―― 井上ひさし2020年紫綬褒章を受章した演出家・鵜山仁が捧げる、終戦から3年後のヒロシマを舞台に父と娘が織りなす命の会話
宮沢賢治作品 初演出となる演出家・宮城聰と、初の演劇台本に挑む小説家・山崎ナオコーラによる、異色のコラボレーションが実現。等身大の人形を駆使し、変幻自在の劇世界を追求した作品。詩人、童話作家として有名な宮沢賢治は、地質学や土壌学の専門家でもあり、貧困を極めていた当時の農民と生活をともにし、収穫量を改善しようと奮闘した。『グスコーブドリの伝記』は、そんな賢治の人生が反映された物語。「人間は自然とどう
40歳を超えて定職につかない独身の男「正」がアパートの一室に独立国を作る。そのアパートの家賃は年老いた母親の年金生活で賄われている。「ガイド」と呼ばれる男に導かれ、日本からの亡命を試みる兄妹と「正」の母親が、その独立国を訪ねる。アパートの隣の部屋には、騒音に近い音楽を聴きながら洗濯物を干す女が住む。彼らは自らの領土を主張しながら、奇妙な同居生活を始める。日本人独特の親子のつながりや登場人物たちの孤
「夢幻能」の形式によって立ち現れるかつてない幽玄の『オセロー』シェイクスピア四大悲劇の一つ『オセロー』。黒い肌の傭兵将軍オセローが、部下の姦計から猜疑と嫉妬に狂った末、最愛の妻を手にかける――舞台はもちろん映画化もされるなど、今も世界中で上演され続けているこの傑作悲劇を、宮城聰は「夢幻能」の形式を用い、オセローに殺された妻デズデモーナの側から描くことで、痛切な「愛の物語」へと昇華させます。「夢幻能
2017年の神奈川芸術劇場での初演、2019年のドイツ・フランクフルトのムーゾントゥルム劇場での上演を経て、「ワーグナー・プロジェクト」初の屋外での実施となった。会場となった「祝祭の広場」は、大分市と建築家・磯崎新氏が主導して誕生した日本初の公共広場である。初日に開催された「ワーグナー・クルー」公開オーデションを皮切りに、全5日間の「ヒップホップの学校」が広場に出現し、第一線で活躍するラッパー・ダ
中年蜂フィメールno.20018とno.20019。この二匹の蜂、生まれて3日目まで女王蜂候補だった。働く庶民だと甘んずることができず、気持ちだけ貴族のまま、巣箱の中で働くフリをして生きてきた。そして届いた“黄紙”。中年蜂の宿命、内勤から外回り勤務への移動辞令だ。命はもう僅か。二匹は辞令を無視して巣箱を出ることを決意し、出発の夜・・。江本純子が静岡で煌めく「民」を取材し、仕上げた新作50分。
いま・ここにいる人間のためだけではない演劇は可能か?人とモノが主従関係ではなく、限りなくフラットな関係性で存在するような世界を演劇によって生み出すことはできるのだろうか? 東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市では、失われた住民の暮らしを取り戻すべく、津波被害を防ぐ高台の造成工事が行われている。もとの地面から嵩上げされる高さは10メートル以上。そのための土砂は、周辺の山をその原型を留めな
テレビゲームの世界に迷い込んだ、小学生の学とあかり。そこは闇の王が支配する恐ろしい世界だった…!現実の小学校生活とロールプレイングゲームの非日常世界が絡み合いながら展開する、冒険と友情の物語。
仏蘭西の或る森近くの別荘に住む、繪礼奴(母)と禰莉(娘)。父である瑠王は月に一度生活費を渡しに訪れる。いつもと様子の違う瑠王に耐え兼ね、家を出ていく繪礼奴。その態度に業を煮やした瑠王は、禰莉に真実を告白し、「もうここには現れないであろう」と去っていく。帰ってきた繪礼奴に禰莉は真偽を追求するが、正反対の告白を聞かされる。自分の部屋へ孤独な女の世界へと去って行く繪礼奴。独りになった禰莉は苦行に身を投ぜ