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本シリーズであえて“実験”の二文字を掲げるのは、この実験が作者である私自身にとっての実験であるからに他ならない。音楽や物語など、私にとっては外部の既存のものから得る刺激によって創作するのではなく、まずは空間及び動きの法則を仮定し、そこから何が生みだされるのかを創作過程において研究/記録すること。その科学的アプローチこそが本創作(実験)の趣旨である。(金森穣)
地方にある古い家屋。再開発にあたり、所有者をはっきりさせるべく、この家の子孫と思われる数名が招かれたが話はまったくまとまらない。さらに大きな問題が一つ。その中庭にある「大きな石」。この石には謂れがあり、移動することなどもっての外だという。時代が遡って地租改正の頃、同じ場所。そこで暮らす人々はこの場所を新政府に取り上げられるのを阻止するべく、目の前にあった「大きな石」に物語を与えることにする……。
2002年6月18日、イスタンブールの旧市街にある貧乏旅行者専用の安宿。その安宿の一室で、日韓のバックパッカーたちが倦怠と喧噪の日々を過ごしている。2001年の同時多発テロと、それに続くアメリカ軍のアフガニスタン侵攻によって、バスのルートが遮断され、多くのバックパッカーがイスタンブールで足止めを食らう結果となったのだ。この日は、日韓ワールドカップのベスト16の試合日。すでに、この日の午前中に、日本
「鏡の中の鏡」は私と佐和子のための作品です。1人の男と1人の女が互いの心の深淵を覗き込み、その普遍性に辿り着くことで再び出会う事るそれは互いの裡なるアニマとアニムス(ユング心理学における裡なる女性と男性)と出会うという事です。(金森穣)
ある会社の新規プロジェクトに各部署から8人の社員が集められる。元企画推進局次長「氷室」はチームリーダーとして意欲に燃えるが、営業三課から来た女性幹部「浅間」も「私もリーダーを任されている」と言う。かくしてプロジェクト・チームはたちまち二分されて徐々に対立が起こり始め、それはパワハラ、セクハラ、誹謗中傷、強制排除へとエスカレートしていく。果たしてチームの面々は無事にプロジェクトを達成できるのか?――
オフィスコットーネプロデュース
旧日本軍の軍国主義を通して、いびつな支配構造を糾弾する作品。ファシズム批判でナチスから糾弾されたドイツ人劇作家ゲオルク・カイザーが1940年に発表した戯曲。模範兵である北国の貧農出身のタナカが、大飢饉に見舞われた故郷に休暇で帰ると妹が不在である。偶然妓楼で妹に再会した彼は、自分のために妹が売られたことを知り、上官と妹を殺してしまう。そして軍法会議にかけられた彼は、民の窮状と軍のまやかしを批判する。
これは、 どこにでもある町の、よく眠ることができる夫婦の、 ある「静かな一日」のお話です。でも本当は「静かな一日」など、どこにもありません。私たちが住んでいる現実に「静かな一日」が、どこにもないっ!のと同じように。私たちは後ろ向きになって、徐々に、南に傾いていく家を見上げながら、日陰を選んで、畏れを飲み込み、日々を生きます。形は決して残りません。形は決して残りません。日々を、私たちはただ日々を積み
清玄の足取りは覚束ない。その時一人の男、権助とぶつかる。権助の目つきはケモノのようである。清玄はその恐ろしい眼から、しかし視線を逸らさずにいる。権助もまた同様に。やがて互いに顔を背け、歩き出した瞬間、完全に点対称で動いた事に一瞬振り向く二人だが、気のせいだとそのまま歩んでいく。戦後復興の救世主、慈悲深き聖人と呼ばれる清玄の孤児院さくら学園。今日、『彼女』はそこから嫁ぐ。彼女が見つめる窓の外を楽隊が
かつての島流しのように森という異界に犯罪者たちが追いやられ、元々好き好んでそこに住んでいるものと共生していた。常にそれぞれの「最適解」がサジェストされる社会の中にあって、最適でない発言や行動は厳しく制限されるようになっており、そのことへの息苦しさもまた頂点に達しつつあった。犯罪者予備軍として社会から半ば排除されてしまった人々が形成する近未来の「森」を舞台にして展開されるSF会話劇。
ここで生きるのではない、ここで死んでいくんだ。マレーシアの日本人向けリゾート地を舞台に、日本を離れて暮らす人々の生態を克明に描く。定年移住、新しい形のひきこもり、海外雄飛、日本離脱・・・、国際化の最先端か、新しい棄民か。5年間の取材を経た平田オリザの書き下ろし。
東京都内某所の雨が続く工事現場に、折り悪く遺跡が発見される。遅々として進まない工事。工事現場の人々、発掘の学生達、ゼネコン社員や文化庁の職員など、様々な人間達がだらだらと集まる飯場に、ユーモラスな会話が、いつ果てるともなく繰り広げられる。青年団史上、もっともくだらない人情喜劇。
荒野の一角にある移動式簡易宿泊所。病人を求めて移動してきた医師と看護師。死人を求めて移動してきた牧師。三人がまだ見ぬ客のことで言い争っていると、宿の亭主とその娘が戻ってきた。娘は、もうすぐ具合が悪そうな騎士と従者が訪れそうだと告げる。そこに、それぞれの従者を引き連れて二人の騎士が現われた…。
外国の戦地に慰問に来ていたグループが突然消えた。噂によればその鉄塔に男たちはいるという。 1998年に初演。戦争という過酷な状況の中、鉄塔の上で交わされる下らないやり取りを描き好評を博した。それ以来、数々の団体によって上演され続けている劇団代表作をオリジナルメンバーで上演。同じ場所で展開する時間軸の違う短編をプラスし新たな地平で物語は完結する――
DaBYアソシエイトコレオグラファーの鈴木竜が、他ジャンルのアーティストらと協働するコレクティブな手法で創作した作品を発表した「鈴木竜トリプルビル」で上演された3作品のうちのひとつ。(共同製作:Dance Base Yokohama、愛知県芸術劇場。2021年12月に愛知県芸術劇場にて初演)2022年に大幅なリクリエイションを行い、「DaBYパフォーミングアーツ・セレクション2022 in Tok
その村は深い深い鬱蒼とした森の中にひっそりと存在していた。その兄弟は早くに両親を亡くしていた。兄は心優しく、弟は頭が悪かったが、天真爛漫な笑顔はいつも人々を笑顔にした。しかし弟がベンダラの儀式を目前に控えたある夜、村は惨劇に包まれることになる。村に残された、哀しく、残忍な伝説が明かされる。その時少年は・・・
202X年、架空の青年海外協力隊第四訓練所。この年、日本政府の財政は破綻寸前となり、全ての海外援助活動の停止が決定される。最後の派遣隊員となる青年たちの訓練所生活の、その寂しく切ない悲喜劇を通して、人間が人間を助けることの可能性と本質を探る青春群像劇。平田オリザが桜美林大学演劇コースの卒業公演のために書き下ろし、大好評を博した本作を、青年団本公演として8年ぶりに上演。
すれ違う時間のなかで、彼はどんな記憶を彼女に残したろう。はっきりとそこにいるのに、キミはまるでずっと遠い果てからやってきた光がかろうじて描いただけの幻影のようだ。違う時間、違う場所で生きてきた人たちが時空を超えて出会い、やがて別れる。はじまって、それから、いつかおわる私たちに捧げる「初めての生」と「やり直しの死」の物語。
本作は、日本映画の女性監督第一号である坂根田鶴子の物語。編集もこなす助監督として、溝口健二に認められた坂根は、『初姿』で監督デビューを果たす。しかし、日本国内では一本しか劇映画を監督できず、満映(満洲映画協会)に移り、文化映画(ドキュメンタリー映画)の監督として活躍する。そして戦後、坂根を訪ねたある者たちから、満映で作った映画『開拓の花嫁』が、国策のプロパガンダ映画だったと非難を浴びるのだが、、、
アマヤドリ活動休止前最終公演となる本作品。『写真撮影』という日常にありふれた行為をモチーフに、日本人の生活様式を過去・現在・未来を行き来しつつ主宰の実体験をベースに描いた四世代に渡る家族の物語。家族の形を世代を超えた対話によって浮かび上がらせてあらためて観客に問いかける作品。
ヌトミック4年ぶりの劇場長編作品。9名の出演者により台詞、歌、ときにラップのような語りが、目まぐるしい時間軸の変化と合わせてシームレスに移り変わる、全編生演奏でおくる新作の日本語音楽劇。現代の東京を舞台に、数奇な人生を送った男が忘れられない思い出を語り出す。思い出はどこまでも飛躍して、多くの寄り道と間違いを犯しながら、少しずつ見えるはずのない世界へと繋がっていく……。
バリアフリー化を余儀なくされる家。独り住む老婆は美意識を損なう老いを受け入れることが出来ない。娘や息子はさらにその先の改装・改築を考える。老婆は彼らにこの家を渡したくはない。同居の甘言を囁く子供達孫達と、歳を重ねるごとに性格が激しく歪む老婆との応酬。さらにこの家を設計した建築家、既に先立った夫の幻影と思い出が現在と入り混じり、ますます老婆の言動は乱れゆく・・・
闇商売で成功した雑誌編集者の田島は、ふと、田舎から妻子を呼び寄せ、まじめに生きて行こうと考えた。そのためには何人もの愛人と、きっぱり縁を切らなければならない。彼は「美女を探して妻の役をしてもらい、愛人の元を訪ねて別れを告げる」ことにする。果たして彼はこれ以上にない適役としてキヌ子に出会う。闇市で担ぎ屋をしている怪力で大食い、鴉声でケチで下品な絶世の美女だ。「愛人の前では口は利かず頷くだけにしろ」と
集団と、集団の言葉と、言葉の意味の侵入を基礎とする新しい舞台。大きな集団に生まれる小さな集団たちが、言葉の意味の侵入を自覚的と無自覚的に行ない合いながら膨張し、飽和し、収縮し、最後に残るべきものことの何かが残る。または何も残らない。という群像になる。
1919年3月1日、ソウル(当時の呼び名は京城)。この街に住む日本人の一家、篠崎家の人々は、今日も平凡な日々を過ごしている。ただ、今日は少しだけ外が騒々しい。噂では、朝鮮人たちが、通りにあふれているという。篠崎家からも少しずつ朝鮮人の雇用者が姿を消していく。三・一独立運動を背景に応接間で唄い、笑い合う支配者日本人の「滑稽な孤独」を鮮明に表した渾身のシリーズ第二弾。
戦時下の家族を通し、戦争に翻弄される庶民、矛盾に苦しみ葛藤する人間の、愛と絶望を描いた作品。母には5人の子供がいた。長男を戦地で失い、日々内戦が激しくなるなか、次男と双子の兄弟も軍人として戦うことを望む。ラジオでは国民に戦争への参加を呼び掛けている。戦死した夫や、長男があらわれ、「大義のための死を悔いてはいない」と語る。夢見がちな末息子だけは戦争にとられまいと、母は必死に守ろうとするのだが…。
地上を あとに 水を 纏いに 行く。 人を 脱ぎ 新しい 喪の ドア。机 上に 盲 目の 自己家畜化家達。 ソックスを脱いで わたしの 身がわりを 飲みに行く。座るのはまだ早い。
天狗伝説が語られ、義経が修業を積んだ場として知られる京都・鞍馬山。平成30年9月4日に発生した台風第21号は鞍馬に多大なる被害を与えた。道を塞ぐ「倒木」をモチーフに、倒れてしまった命を起こしていくダンスパフォーマンス。無数の段ボールは、積まれて崩れるを繰り返す。”鞍馬の火祭”を劇場に巻き起こし、魂の踊りで命に火を灯す。自然の猛威という人間を超えたスケールの基盤に、身体で対峙する代表作を東京
BABY-Qは、身体から織り成される感情の起伏や衝動、個々の人間の本質をダンスの根底に置いて活動する。シーンにあわせた電子音楽や、ダンスとシンクロするダイナミックな映像表現など、様々なモチーフを組み合わせることでコラージュ的に空間を構築していくのが特徴。リゾーム的な「M」につけられたキャッチは、「わたしは何を欲望するのか? そこには、多くの異質で潜勢的な矛盾しあう諸関係が存在する」というもの。妥協
生活困窮者やドメスティック・バイオレンスの被害者などの一時避難を扱う駆け込み寺型NPOのオフィス。NPO幹部職員の不祥事を抱えて、全員の善意が空回りし、喜悲劇が繰り返される。ボランティア団体の日常を精緻に描きながら、現代社会の実情に鋭く切り込み、一方で「人を助ける」とはどういうことかという普遍的命題に正面から取り組む問題作。構想10年、平田オリザ待望の新作書き下ろし。
ミラーボールが回る呪術の場、古今東西のエイリアンによって謡われるダンス現代に潜む様々な文化や進化の記憶の断片を寄せ集めた、キメラ状身体。それは、古くて新しい奇妙なエイリアンたち。現在であり過去であり未来である時間=無時間。世界はミラーボールが回るダンスフロア。人間も動物も、生命はみな踊る。ここにミラーボール主義を宣言する。
おもむろにビニールプールを膨らませる15人の俳優。ビニールプールが完成すると、その中に胎児のように丸まって、眠りにつく。音楽が始まると、彼らは、それぞれの島に住む人々や、島の魂、妻に逃げられた若いパパや、ロンドンに居るイギリス人、ビニールプールの検品をしているアルバイトなど、様々な人物になっていく。リップシンクによる、コンセプトアルバム的な音楽シーンの連続で送る、人類の孤独を慈しむ音楽劇。
2011年夏。仙台市郊外にある幸田家は、大地震で半壊の指定を受け、半年を経ても殆ど手つかずの状態。昼下がりの茶の間で向き合っているのは、福永陶吾と妻の夏苗。夏苗の両親の幸田伸介と渓子、兄の伸也。卓の上には一通の書面。木々の梢を震わす蝉時雨とは対照的に、地震の傷跡も生々しい室内は沈鬱な静寂が支配する。何れの肩にも焦燥感と切迫感、そして徒労感が重く張り付いている。長い沈黙に耐えかねたように話を切り出す
舞台は近未来の美術館。ヨーロッパでは大きな戦争が起こり、そこから避難してきた絵画を前に、家族や恋人たちが、両親の世話や相続問題、進路や恋愛などについて断片的な会話を繰り返す。遠い戦争という大きな背景を前に、日々の生活を送る現代人の姿が克明に描写され、その中から現代社会の様々な問題点と危機があぶり出される。『東京ノート・インターナショナルバージョン』は、国際都市として変貌し、その変貌ゆえに苦悩も抱え
「えっと、一人とばして翔君なの」写真の説明をした人はそう言った。ああ、とばされたのは私。いつも忘れられる……だからなるべく派手な服を着ている。育った環境に強烈に縛られている愚かな家族。鎖から解き放たれていく様子を愉快に描く劇団代表作。
向井川淋しいが、初めて演劇をやったのは小学校4年生のころだったのね。っていっても、あたしはこのころまだ淋しいと出会ってないから、本当にそうだったかは知らないんだけど……。あたしが淋しいと出会うのは、もう少し先の未来。つまり、いまから話すのは、淋しいにあとから聞いたことと、あたしのこうだったらいいなって願望がミックスされた物語。だから、正確には『向井川淋しいが、初めて演劇をやったのは小学校4年生のこ
演劇をやめて久しい土井は、かつて出演した演劇作品の「演出家」の弟を名乗る人物から、演劇の上演を依頼される。そこで土井が受け取ったのは、アンドレイ・タルコフスキーのある映画をもとに書かれた、演劇と救済にまつわる、一本の奇妙な戯曲だった――。初演を経て、演出、演技を全面的にブラッシュアップした、東京公演版「フェイク・読書会演劇」。
空、蒼すぎて淋しい、などと感じるのはなぜだろう。そう言ったその人の心が私にもわかるのはなぜだろう。見えないのに、ある、と思うことがあるのはなぜだろう。見えているのに、そこにいない、と思ったりするのはなぜだろう。心の声を聞いた、などと人は言ったりする。産毛の皮膚の筋膜の筋肉の筋の腱のそれより中の方の、見たこともない領域の、そのユラギを見たような気がするのはなぜだろう。あの人の体験をまるで自分の記憶の
「本物とニセモノの間に見世物がある」を掲げるオムニバスコント集。本人たちが本人のまま謎の暴れ草刈り機に巻き込まれるなど、演劇における本人性の効果や、ユーモアにおける場合など演じることそのものがさまざまなコントから浮かび上がる。
文化祭の前日は繰り返されなくて、ぼくたちは片隅の踊り場、変わり映えのない一日を見送ってた。増えていく過去形と消えていく可能性の間で右往左往する姿はまるでダンスみたいだねって言ってくれたことを忘れるわけない。ここは居心地がいいけど、文化祭はとっくに終わったしお腹も空いたし、もう行く。
『仮想的な失調』は、二つの古典作品を下敷きにした物語です。ひとつは、自分の名前すら忘れてしまう坊主を主人公とした狂言「名取川」。もうひとつは、源義経の西国落ちを題材にとり、涙の別れをする静御前と、かつて義経に滅ぼされた平家の亡霊を一人二役で演じる能「船弁慶」。常に複数のSNSを使い分け、様々なアイデンティティを駆使する現代の生活に向けて、これらの物語の新たな語り直しを試みます。
文学とは何か、人はなぜ文学を欲するのか、人には内面というものがあるらしい。そして、それは言葉によって表現ができるものらしい。しかし、私たちは、まだ、その言葉を持っていない。この舞台は、そのことに気がついてしまった明治の若者たちの蒼い恍惚と苦悩を描く青春群像劇である。
山奥の小さな会社で問題が起きた。解決を迫られる総務部部長。けれど誰が悪いのかは分からない。それぞれに言い分があって誰もが正しい。真っ向から意見は対立し会社内の人間関係は最悪だ。ああ、このままでは会社の先行きすら危ない……。社会の分断が進む中、少しでも光を見られるような作品を創ることを目標にMONOの原点であり得意な会話劇にこだわり、会議室を舞台に何が正しいのかを巡って間抜けで真面目な会話の応酬を描
幻想的な公園で繰り広げられる中学生カップルの一夜と普遍的な母の物語が融合する、祝福の雪が舞う愛おしい「時」の断片たち―2018年初演後、熱烈にラブコールを受け2020年度には早くも再演された、FUKAIPRODUCE羽衣の代表作の一つ。「母」をキーワードに、愛と一緒に訪れる闇、闇と一緒に訪れる愛を描く“妙ージカル”
2015年度に開館10周年を迎える吉祥寺シアター。また、吉祥寺シアターのこけら落とし公演をきっかけに始まった「ミクニヤナイハラプロジェクト」も同じく 10周年を迎えます。両者の10周年記念公演として。超高速な発話と激しい動き、デフォルメされたキャラクターが特徴である「ミクニヤナイハラプロジェクト」が、全く逆の「静かな演劇」と評される平田オリザの名作『東京ノート』にどのように挑むのか。2015 年の
ある地方都市に住んでいるミツオは高校3年生で野球部のエース。キャッチャーのフジ、チア部のテイとはよく一緒にいる仲だった。テイはミツオへの思いを隠さずに突き進むが、ミツオは相手にしない。それを笑うフジ。そんな日常が、輝いていた。だが、ある日、ミツオは野球部の余興で女装をすることになる。ミツオはその時に感じた高揚感の正体を探っていく中、性同一性障害という概念を知り、自分が女なのではないだろうか、と疑念
高村光太郎と智恵子の生活を素材に、変わりえぬ日常を縦軸に、文学者の戦争協力の問題を横軸に、詩人の守ろうとしたものを独特の作劇で淡々と描く・・・。平田オリザ90年代初期の名作、10年ぶり、三回目の再演。
9回目を迎える「踊りに行くぜ!!」は、毎年10月から12月北海道から沖縄まで全国を巡回公演する企画です。Vol.9は21地域で開催、参加アーティスト41組となりました。各地の公演の様子をシリーズでお届けしておりますので、どうぞお楽しみに!!今回は最終公演、スペシャルin東京公演から紹介します。2009年5月“スカパー!シアターテレビジョン”にてレギュラー放送されたプログラムです。鈴木ユキオ(金魚)
東京に、大きな空のあったころ。祖母から聞いた話と、祖父から聞けなかった話。その光と影を紡いで結ぶ物語。銭湯帰りに見上げる月を、ライカ犬を乗せた宇宙船スプートニクが横切ってゆく。この高台の町の片隅に、戦前から続く工業所を営む一家が暮らしていた・・。作者が自らの系譜を辿り、曾祖父母の人生をモチーフに創作。昭和四十四年の夏と、昭和三十三年の春夏秋冬を舞台に、戦後を生きた市井の人々を瑞々しく描く群像劇。
20 世紀初頭アイルランド文芸復興運動の中で生まれたJ.M. シングの喜劇はユーモアと皮肉を織り交ぜながら、アイルランド西部の小さな村に暮らす農民たちを生き生きと描き出す。常連ばかりが集まる田舎の酒場を父と二人で切り盛りする、 美人で勝気な娘ペギーン。 ある晩、「父ちゃんを殺しちまった」と語る謎の男が現れ、 なぜか村人たちの人気者に。 村はざわめき、恋も騒動も転がり出す。ところが物語は思わぬ展開と
「君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む」フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』より足元を覆いつくすアスファルトのように、深淵は僕たちの日常に寄り添っている。足元に砕け散ったフロントガラスの破片のように僕たちの身体は今ここに放り出されている。深淵に映り込む影が、僕たち自身の姿であり、身体そのものであるのなら、明晰とは、ただそこから逃れることなく、ただここにあることを、ただひたすら見つめ
なにが正しくて、なにが間違っているのか。誰かの記憶か、いつかの夢か? 記憶が曖昧で、分からない。この光のない小さな部屋の外に、本当に世界はあるのだろうか…。何もかも“記録”することで薄れていく“記憶”や、モビリティが高くなりあらゆる境界線が曖昧になっていく社会、そして自分がいる世界から脱することのできない閉塞感やその中で生きる人間像を、光のない小さな部屋に閉じ込められた3人により描き出す。
重大なミッションを果たすべく、イン・ビトゥイーン号が、四人の乗組員と一体のアンドロイドを載せて、宇宙を漂泊しています――『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では、内容的な〈リアリティ〉と形式的な〈リアリティ〉、どちらの〈リアリティ〉も複数、並列的に提示されます。演劇において、舞台の上で、せりふがある言語で発される……。そのことの意味・機能についても、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では複数のそれら
令和2年。56年ぶりに開催された東京オリンピックに日本中が熱狂していた。国内最大の国際拠点である第二東京国際空港もまた、例年以上の賑わいをみせている。そんな中、華やかなアスリートたちの活躍の影で、ひっそりと海外メディアの注目を集めた家族が居た。『千年(ちとせ)』の表札がかかったその家は、第二東京国際空港・滑走路の延長線上にある。この一軒の家の為に、第二東京国際空港は未完成のままでの運用を余儀なくさ
武家政権が始まって二百年が過ぎたある時代強烈な個性と権勢欲を持つ一人の男が将軍の座に就いた。将軍は、武家棟梁の座に飽き足らず日本の頂点に立つ事を夢見た。即ち、帝の座を奪う事である。将軍には寵愛する美しい役者がいた。その名は鬼夜叉。将軍の庇護のもと、その芸の道を極めつつあった鬼夜叉は、しかしある日、将軍の野望を知る。鬼夜叉は尊皇の志厚い忠臣楠木政成の血を引く一族の末裔であった。愛する将軍か、はたまた
建物の中に国境線がひかれた─ 何も変わらないはずだったのにね。 ある時ヤツがふざけて言った。『この線から出たらダメってことにしよう』私はわざと線から手を出してやった。ヤツは笑いながらその手を押し返した。そんな戯れを繰り返した。そしてそれからどれくらい経ったっけ?遊びたくなったので、私は笑いながら手を差し出した、すると……ヤツは突然殴り掛かって来た。一切の笑顔を消して。 見えない線。線とは何かを巡る
重大なミッションを果たすべく、イン・ビトゥイーン号が、四人の乗組員と一体のアンドロイドを載せて、宇宙を漂泊しています――『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では、内容的な〈リアリティ〉と形式的な〈リアリティ〉、どちらの〈リアリティ〉も複数、並列的に提示されます。演劇において、舞台の上で、せりふがある言語で発される……。そのことの意味・機能についても、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』では複数のそれら
1929年10月24日、ソウル。篠崎文房具店にも大衆消費社会の波が押し寄せ、新しい経営感覚が求められていた。この家の長女に求婚したアメリカ帰りの新進企業家。精神を病んで、入退院を繰り返している長男。エリートとして総督府に勤めながらも植民地支配への協力に悩む朝鮮人書生。満州へと向かう道すがら、京城を通り過ぎる謎の若き芸術家集団。関東大震災以来の重苦しい不景気を打開するため満州への進出を企てる日本国家
1909年、夏。日本による韓国の完全植民地化、いわゆる「日韓併合」を翌年に控えたソウル(当時の呼び名は漢城)で文房具店を経営する篠崎家の一日が淡々と描かれる。押し寄せる植民地支配の緊張とは一見無関係な時間が流れていく中で、運命を甘受する「悪意なき市民たちの罪」が浮き彫りにされていく。初演以来22年、国内外で上演を繰り返し、2006年アヴィニヨンをも震撼させた平田オリザ初期の伝説的作品、待望の再上演
医療事故で妻を失った自称漫画家。失意の漫画家は妻との思い出を燃やしてゆく。すると思い出は消えるが、代わりに強大な腕力が漲り次々と怪事件を起こしてゆく。愛国心溢れる漫画家の言う通り、その悲しみは日本のエネルギーに代わるのか。破天荒の漫画家と彼を取り巻く市井の人々と家族の物語。
12人の俳優による妙ージカル(妙なミュージカル)。舞台奥に12基の墓石が一列に並んでいる。西洋の戦場跡に並ぶ、戦死した兵士の古い墓のよう。墓石には12人の俳優の名が、それぞれ刻まれている。雪が静かに、そして激しく降り続けている。その中で、小学生から老夫妻までの幅広い6組のカップルの模様が、歌と踊りを交えて展開される。2014年初演作の改訂再演。降り続ける雪、役者名が刻まれた墓、という印象的なビジュ